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《読書案内》「壁の向こう側」ではない、もう一つの「ドイツ」―河合信晴『物語 東ドイツの歴史』

ドイツ史を専門分野としている私は、専門家の「義務」として、ドイツを舞台にした映画をなるべく観るようにしています。しかし、少なくとも現代の日本に伝わってくるドイツ関係の映画は、ほとんどがナチスや東ドイツの抑圧体制を扱ったものであり、陰鬱な内容になりがちです。その中でもまだ明るい気分で観ることのできる作品として、『グッバイ、レーニン!』(Good Bye Lenin!)が挙げられます。これは、東西ドイツ統一時の混乱を通じて東ドイツの一家に起こった悲喜劇を描く内容となっています。この作品の主人公の母親は、表向きは社会主義体制に忠実でありながら、実は政府を信用しておらず、西ドイツへ亡命した夫のことを慕い続けていた人物として描かれています。ここで反映されているのは、本音と建前を使い分けることで人間の私的な内面の善意が汚れ無く守られていたという、東ドイツ社会に対する従来の解釈です。しかし、今回紹介する『物語 東ドイツの歴史』の著者である河合信晴さんによれば、この解釈は東ドイツの社会主義体制が専ら抑圧的だったという西側に典型的な視点を反映したものであり、実情はもっと複雑だったといいます。

最終的には崩壊してしまう東ドイツの歴史は、前回紹介したアンドレアス・レダー『ドイツ統一』が語るように、「再統一」を主導する立場になった西ドイツの成功物語と対置されて、失敗の過去であると看做されがちでした。しかし、著者はそうした東西統一後の体制を正当化する「神話」とは距離を置いて、事実として東ドイツに何が起こっていたのかを包括的に叙述すると宣言しています。また、東ドイツの庶民たちが「面従腹背」であったという先述の見解も、彼らが身近な生活上の問題を解決するために「請願」(Eingabe)を通じて行政機関や大衆団体へ積極的に政策提言をしていたことなどから、間違いであると退けています。これに関しては、著者の別著『政治がつむぎだす日常』でもっと詳しく論じられています。このように、著者が描く東ドイツは、西側の人々が同情と侮蔑をもって眺めた、単なる「壁の向こう側」の奇怪な世界ではありません。そうした叙述を達成した本書は、現在の日本における東ドイツ史の決定版と呼んでも過言ではないでしょう。

とはいえ、「実際にはどうであったか」を描こうとする著者の筆が、東ドイツの歴史に対する批判、あるいは著者自身の価値判断を免れさせることはありません。特に、著者は「理想」に拘る楽観的で無責任な指導者たちの姿に、西ドイツが見せる消費社会の「豊かさ」や民主主義の「自由」を求めて声を上げた庶民たちの姿を対置させています。「都合の悪いことを隠そうとしたり、歪んだ情報を提供したり、根拠もなく楽観的な言葉を言い続ければどうなるか」(270頁)。本書で現在への教訓として描かれる指導者たちの姿からは、周囲の動きに合わせながらもワンテンポ遅れて下手なダンスを踊っているような、酷く滑稽な印象を受けます。

しかし、政治家個々人を見た場合、その歴史像は妥当だと言えるのでしょうか。ここに、今後の東ドイツ史の可能性があるように思えます。例えば、政治史研究者の今野元さんは、ベルリンの壁が崩壊した時の国家評議会議長エゴン・クレンツ(Egon Krenz, 1937- 上掲写真)に対する取材記事で、前議長エーリヒ・ホーネッカー(Erich Honecker, 1912-94 下掲写真)の伝記を準備していると公言しています。本書が提示した歴史像についても、こうした個別的な伝記研究によって、更なる議論が提起されていくかもしれません。いずれにせよ、東ドイツ史を「鏡」として現代の日本を考えてみるのも、決して無意味なことではないでしょう。

<書誌情報>

河合信晴『物語 東ドイツの歴史―分断国家の挑戦と挫折』中公新書、2020年。

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/10/102615.html

 

<著者情報>

河合信晴(広島大学大学院人間社会科学研究科准教授)

https://researchmap.jp/read0196204

 

<その他参考文献>

河合信晴『政治がつむぎだす日常―東ドイツの余暇と「ふつうの人びと」』現代書館、2015年。

http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5760-3.htm

今野元「Gespräch mit Egon Krenz」『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』第19号、2018年、211-247頁。

https://aichi-pu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3485&item_no=1&page_id=13&block_id=17

林祐一郎「《読書案内》30年後から見た「再統一」―アンドレアス・レダー(板橋拓己訳)『ドイツ統一』」

https://bote-osaka.com/yomoyama/2020/10/505/

レダー, アンドレアス『ドイツ統一』岩波新書、板橋拓己訳、2020年。

https://www.iwanami.co.jp/book/b527921.html

 

<画像出典>

 

文責:林 祐一郎(大阪日独協会学生会員・京都大学大学院文学研究科修士課程)

 

 

 

 

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