今年ドイツは再統一30周年を迎える。周知の通り第二次世界大戦後の冷戦構造の中1949年に東ドイツ(ドイツ民主共和国)が建国されたことにより事実上ドイツは東西に分断された。東ドイツが首都とするベルリンも当時のソ連が管理する東ベルリンと米、英、仏が管理する西ベルリンに分割された。ソ連による西ベルリン封鎖を経て1961年の壁建設により分断は確固たるものとなった。しかし1980年後半のゴルバチョフの改革路線ペレストイカで次第に東欧諸国の民主化が進み、1989年のハンガリー国境の汎ヨーロッパピクニック計画では東ドイツ国民は比較的出国制限がゆるやかだったチェコを経由して西ドイツへ移動をはじめた。これをきっかけにライプチヒやベルリンでの民主化デモは拡大し、そのエネルギーは東ドイツを国際的地位や市民生活をそれなりに向上させたといわれていたホーネッカーを退陣させ、1989年11月にベルリンの壁はシャボウスキーの「世紀の勘違い」の記者会見をへて崩壊した。戦後、チャーチルやサッチャーが、フランスがあの恐怖の破壊的非人道的政権のナチスドイツを放佛させる巨大統一ドイツには否定的であったにも拘らずわらず、数年かかると言われていたのにも拘らずドイツは翌1990年に再統一した。統一前後の日本の新聞、書籍に書かれた内容や遠く1万Km以上離れた島国日本の国民が東ドイツのことを語った印象をおぼえている。“ドイツは社会主義国の優等生でその国力は世界の10指に入る”は完全に過大評価であり、また“街は汚染されており、食べ物も少なく国民は貧困生活にあえいでいる”というさげすんだ見方は私がみた東ドイツとは違っていた。ただ、人々が幸せに、活力的にいきていくのに必須の「移動の自由」や「表現の自由」がなかったという致命的な指摘は事実であった。1981年からベルリンの壁崩壊の1989年まで、延べ4年間仕事で東ドイツに滞在した際の経験をもとに当時の現地の生活実態や、壁崩壊直後に訪れたベルリンや最近訪れた旧東ドイツ地区の現状を、当時からの友人の経験談をまとめてここに私の見た東ドイツの総括としたい。
1.私がみた東ドイツ事情
1)私と東ドイツとのかかわり 新工場建設契約
日本と東ドイツの正式国交は、1982年9月にはじまるがそれに先立ち1981年に国家評議会議長のホーネッカーが来日している。国家戦略としてあらゆる分野で西側諸国の最新の科学技術を導入し設計、製造技術や生産性を向上させ西ドイツのみならずヨーロッパ全体に東ドイツを優等国として認めさせようとした。彼は日本では日本の機械や産業ロボットなどの工業技術に高い関心を示したとされる。それと前後して私の勤務していた自動車部品製造会社は日本の大手商社を介して、東ドイツ輸入公団とクラッチプラント輸出契約を結んだ。現地のIFA(東独自動車公団)傘下の国営企業RENAK社の老朽化設備を新工場建設し総入れ替えして近代化しようとした。クラッチ部品の機械加工や熱処理設備、組立や検査設備で計150台余りの機械設備と周辺機器を日本国内で調達、調整し東ドイツへ輸出した。それらの設備はトラバントやワルトブルグ、バルカスのクラッチ製造に使用された。新工場建設場所はザクセン州ライヒェンバッハ。ここはエルツ山地方にあってかってのカールマルクスシュタットであるケムニッツやロベルトシューマンの生誕地であるツヴィカウのやや西南に位置する。街を離れると周りが一面小麦畑となるシラーシュトラーセに工場二棟と工機工場棟が建てられた。私は1981年から会議で東ドイツを訪れたのを皮切りに、1984年の工場完成と、その後のメンテナンス契約や新機種立ち上げ契約のため1989年まで日本と往復しながら東ドイツに滞在した。
残念ながら、この仕事を始める前の当時の私は東ドイツに関する事前の情報も興味も持ち合わせてはいなかった。東西ベルリンは知ってはいたが、私の頭の中では東西ドイツの国境にあった。西ベルリンが東ドイツの陸の孤島として存在するのも確固としたイメージでとらえきれていなかった。ベルリンの壁も物理的なものより“鉄のカーテン”様の精神的な体制の違いを表すものとぼんやりと考えていた。
2)東ドイツの国境管理
私は出張で日本から東ドイツへ向かう際は成田からアンカレッジ空港で乗り継いで西ドイツ空港経由でテーゲル空港に入った。南回りの東南アジア、中東経由よりは時間短縮できたが遠回りの無駄な時間を費やした。当時のソ連上空は西側の飛行機は飛ぶことができなかった。またテーゲルへの便はルフトハンザ航空便は利用できず米英便を使った。テーゲル空港はソ連邦による西ベルリン封鎖時に49日で滑走路工事が完了し、米国を主体とする空輸作戦「空の架け橋」に供され、大量の物資を受け入れたドイツ分断の象徴的な空港である。西ベルリンから東ベルリンへの移動は面倒であった。車、徒歩で国境を超える際はチェックポイントチャーリーを、列車の場合はフリードリヒシュトラーセ駅の検問所を利用した。“東ドイツの近代化に寄与する日本人のスーパーバイザー”でもあったので出張の度に期間限定のビザと滞在許可書をもらっていた。検問所ではそれらの書類とスーパーバーザ証明書、パスポート、旅行者集計カード(Zählkarte)を提出し、現地通貨マルクをドイツマルクで両替した。東ドイツマルクは持ち出し、持ち込み禁止であったが、フリードリヒ駅の西側高架脇の両替屋ではドイツマルクと1:5~10の換金率で購入できた。東ドイツ検問所で1:1で東マルクとの交換が入国の条件なのは外貨特にハードカレンシーのドイツマルクを獲得するためであった。フリードリヒの迷路のような検問所では、順番待ちの後“ジー”という音と共に開錠されるので自分で扉を開けてブースに入る。一段高いところに国境管理係官がいて入国者を審査している。そこは閉ざされた個室で、威圧的な大男の係官が数名いて私の挙動と書類と交互にチェックする。緊張する。よく見ると壁に鏡が掛けてあって死角になっている私の手荷物が係官から見えるようになっている。検問所の出国時はさらに緊張する。チェックポイントチャーリーでは、国境警察が犬を連れて出国者の車の周りをぐるぐる回り、トランク、エンジンルームだけでなく後部座席も外してみている。運搬用のキャリーの先に鏡をつけて車体の底を見ている。滞在中に、検問所のゲートのバーより低い改造車で突破しようとして銃撃を受けた話などをきいたので、検問所では極度に緊張した。30年たったいまでもあの扉の“ジー”という音は忘れることはできない。税関ではときどき入出国者が別室へ連れていかれた。国境管理はハード、ソフトとも厳重で完璧であった。これ以外にも東西ドイツ間の1400Kmに及ぶ国境には、モノが動くとセンサーが感知し、動いているモノに射撃する自動発射装置が3万基以上設置されていたとされる。このように東独は国境に、特に自国民の監視に膨大な投資をしていた。
検問所 チェックポイント・チャーリー ビザや国境通過スタンプ
Zählkarte ベルリンの壁
3)列車と東ドイツ情報管理
列車はその運航の正確さ、清潔さ、乗っている人の表情や態度でその国の社会情勢や人々の幸福度が推し量れるといまでも思っている。東ベルリンに入った後は、列車で工場のあるライヒェンバッハまでライプチヒ経由で移動する。約5時間、定刻に発車、到着することはない。乗車賃は安かったが窓は数年間清掃したことがないようで外の景色を楽しむことはあきらめなくてはならなかったし、トイレも使えないものがあった。多くの人々は暗いコンパートメントで押し黙ったままであるが、たまに小さなコミュニケーションが取れることがある。私が西から持ち込んだ雑誌を見ていると同室の若い女性がチラチラとその表紙に視線を送ってくるのがわかる。読み終わって、彼女にそっと差し出すと彼女は礼を言って雑誌をさっとカバンの一番底に収めた。西側の最新情報誌は東独の人たちにとっては表向き「西側の恥ずべき退廃的文化」に満ちた禁断の書でもあるが西側のファッションや食べ物、新型車、電気製品の情報を得る貴重な資料である。たかが雑誌に随分気をつかっているのが気の毒だった。私は国境で取り上げられない限りは西で雑誌を数冊買って、列車の中で読み終わったら必ず誰かに直接手渡したり、下車する動作をわざと大げさにしてから座席に置き忘れるようにした。時々、車内検札係が西の新聞雑誌を回収するところをみているのでそれまでに誰かのバッグの底に収まるのを願って。東ドイツでは家庭内のテレビ、ラジオでは西の放送を受信できたが、西の雑誌は工場内でも高い需要があった。
上DR/下DBの切符 フリードリッヒ通りと駅の高架の立体交差
4)東ドイツの街と人々の生活
ベルリンもライプチヒもライヘンバッハの街も人通りは少なかった。特に、ベルリンのブランデンブルグ門へ行った際は誰一人も門の近くにいないのには驚いた。西側の観光客の人出と真逆であった。写真を撮っていると警察官が近づいてきて、そばに張り付いた。彼らは実力行使をするわけではないが、私はカメラをバッグにしまい、そうそうに門前の広場を立ち去った。東独ではそんなややこしい所へわざわざ出向く人はいなかった。夕方になってもなぜか人出は限られた。さすがにベルリンは、地味ながらネオンサインにつられるように人が歩いているが、地方では街灯も少なくネオンもない。土、日曜日は確かにパブとかレストランには人が入っているが、よく見ると看板のない店が結構ある。ネオンサインも看板もこの国ではそれほど必要がない。国や公社に雇われている店員たちは固定給で仕事をしていて、わざわざそんなにたくさんの客を呼び込んで忙しくする必要がない。この国には野心家の居場所はなかった。
ブランデンブルグ門(1984年) ブランデンブルグ門(1990年)
通りは人が少ないうえに、街並みはなんとなくくすんで見えた。どこの街でも、住居の地下に石炭(褐炭)を貯蔵して消費していたし、企業の電力も石炭火力発電だった。そのせいで、街はいつも石炭と、トラバントのツーサイクルエンジンが出す排ガスのにおいで覆われていた。いまでも褐炭の採掘量はドイツが一番多いが低品位の石炭とされ燃焼効率が悪くその分大量に消費された。1945年ドレスデンの空襲で破壊された後に復元されたツヴィンガー宮殿や統一後再建されたフラウエン教会に組み込まれたガレキ片やほかの街の歴史的な建造物が黒いのは空襲時の焼夷弾で焼けたすすとこれら褐炭の燃焼ガスによるものだ。東では、環境への影響とは無関係に安い褐炭が大量に消費された。すすけた街並みは人々の野心や明るい未来を捨て去ったかのような表情と相まって一層暗く沈んだ印象を与えた。もちろんバロック調の残るドレスデンは西の派手でどぎついネオンサインのハンブルクよりはるかに品格がありドイツ的ではあったが。
ライヘンバッハの街並み(1984年) ライヘンバッハの街並み(2019年)
路上に山積みの褐炭 街は綺麗で石炭の匂いもない
ライプチヒお街並み(1984年) ツヴィンガー宮殿(1984)すすけて黒い
モヤが街全体を覆っている。
ドレスデン中央駅前通り 西ベルリンヨーロッパセンター前(1989年)
東独の人たちは社会主義統一党の体制下、ロシア語を話せる人に対し英語の話せる人は少なかった。職業で話す通訳以外ではほんのわずかだった。中にはNHKの短波放送を聞いて日本語の勉強しているとコッソリ打ち明けてくれる若い人もいたが。外国人と接触する機会もない東独の人たちはドイツ語を話せない私が街中で英語で話しかけるとみんな逃げるように私を避けた。いまでも東ドイツ地区を旅するとそういう状況になるので「資本主義者と親しげに話すのを気にしている」のではなく外国人と交流のない閉鎖社会での生活を余儀なくされた東独人はすれていなくシャイな一面を持っている。またつたないドイツ語を話すと西ドイツ地区ではちょっと面倒な顔ながらも外国人の話すドイツ語として理解しようとしてくれるが、東地区、特に高齢者層では東独時代のなごりなのかちゃんとした母国語、自分たちのわかる言語以外は積極的に理解しようとしない傾向を感じた。もちろんその傾向は米国人ほど強くはない。
むろん彼らも閉鎖的な環境に置かれていたからといっていつも暗くて沈んだ顔をしていたわけではない。レストランやカフェではみんな楽しく食事をし活発に話をした。旧友が撮った写真をみるとプライベートなパーティでも彼らは彼らなりの方法で楽しんでいる。職場の雰囲気も良かったに違いない。食事も飲み物もメニューの下の方(高価といってもせいぜい20マルクレベル)を選べば問題なく美味しかった。東ドイツの土地は西地区に比べて肥沃でないとされていた割には、食料品や日用品は商店やスーパーもあってなんでも安く買えた。どんなものもシンプルで最低限の品質と量は確保できていた。ここが東独における社会の大きな特徴であった。つまり、食料不足で飢えることはないが高級レストランでキャビアをたべることもできないし、すごく香のよい香水も、全量コーヒー豆で煎れたコーヒーや、薬っぽさのない100%麦芽のビールも、高級ブランドのスーツも手に入ることはないが誰もが東独標準品を平等に手にすることができた。大衆車トラバントは徹底したシンプルな車で一つでも部品を取り去るとトラバントはもう車とは呼べなかった。車の需給のバランスは悪く注文後10年程度待って8000東マルクで購入できた。一緒に仕事をした中堅どころの技術者は給料は約1000マルク/月とうちあけた。
日本人とRENAK社合同飲み会(1984年) レストランのメニュー(1984年) RENAK社の親睦会(1980年代) RENAK社 社員の無頼べート仮想パーティ(1980年代)
主要な街のホテルや駅の周辺にはインターショップと呼ばれる外貨専用の店があった。ここでは西側ブランドの泡の良く出る石鹸やカカオが充分入ったチョコレートやピカピカの電気機器などが外貨で買えた。街を歩いていると見知らぬ人が近づいてきて私が日本人であることを見定めた後東マルクをドイツマルクに交換してくれという。私は両替商ではないので物陰に隠れて非公式に取引することになるができれば短時間ですませたい。西ベルリンでのレートの一番高い1:5で早々に手を打った。インターショップでお菓子を買って誰かにプレゼントするという。ほほえましくも切ない複雑な気持ちの闇取引となった。東マルクでしか稼げず、それもその自国通貨が西ドイツマルクの五分の一以下であることを認めないと物が買えないインターショップ、外貨を稼ぐためとは言えなんという冷徹なシステムであったことか。街中でのこういった経験は滞在中、十回近くあった。私はレストランのチップも少額だができるだけドイツマルクにした。中にはこれは悪いお金だといって受け取らない店員もいたが、大半の店員はそうではなかった。
5)東ドイツで働く人々
工場建設が始まるころは複数の日本人が現地に滞在したので、当局から直接、または協業のRENAK社を通じて様々な注意事項の説明があった。工場のあるライヘンバッハの一般的なガイダンスや交通安全の説明の後、東独独自の注意事項があった。一対一で日本人と東独人が会ってはいけない、あちこちでむやみに写真を撮ってはいけない、物交換は・・・と微妙な部分の説明が最後にあった。そうだ東独当局からみれば仕事で滞在しているとはいえ私たち日本人は立派な資本主義陣営の一員で彼らが忌み嫌う退廃的文化に染まった防御すべき人たちであった。当時の重要な情報機器でもあるワープロやコピー機は当局の要員が事務所にやってきて一台ずつチェックしていった。当時の書物には、東ドイツ軍が急襲すると西のハンブルグは6時間で制圧されるとか、東独領内のソ連のICBMの配置図とか極普通に書いてあったし、アウトバーンの直線路では戦闘機が離発着できる施設をみているし東西ドイツは確かに準戦争モードであった。しかしそういう政治体制とは別に、協同で仕事を進めていくうち我々日本人と工場で働く東独の人たちはすぐにうちとけた。一緒に設備を設置して立ち上げていくなかで、技術者たちとは真剣にむきあって理解しあえたし、最終の検収テストでは生産ラインのワーカー達、とりわけ女性陣が検収テストの重要さを理解し普段みせないようながんばりでテストを成功に導いてくれた。みんな一緒に喜んだ。検収テストではライン稼働率に応じて日本側に違約金が発生し、ライン長はその結果で成績が評価された。私たちも若く一生懸命だったし、彼らたちも真剣だった。そこには壁も国境も冷戦も存在しなかった。本当にいい人たちと仕事ができた。
東独では、女性が事務所内はもちろん工場内の旋盤工や、トラックの運転手、工場建設現場のブルドーザのオペレータとして働いているのをよく見かけた。政権や会社の上層部には女性は少なかったが、一般の労働者層では男性と同じようによく働いた。1961年8月にホーネッカーが軍と警察数万人を動員して一晩でベルリンの壁を建設するまでに、東独から260万人以上が逃亡し労働人口が減少しているという背景もあって女性たちも働かざるを得なかったとか、社会主義国家においては男女平等であり完全雇用であるためには賃金を低く抑えて多くの女性の働く場を確保しているだけだという分析もあった。今もどこかで聞いたことがあるような話だが。
工場内日本人SVとホール責任者(1988年) 日本人技術者と事務所スタッフ、通訳(1988年)
ドイツ人は議論好きで堅過ぎるが理論的であった。それと一見喧嘩をしているのではないかと思えるほどの議論をする相手をより信頼した。愛想笑いの多い日本人はきちんとした議論ができない相手と映ったに違いない。多少のユーモアや皮肉っぽいところ含めも今の私の理論形成のバックボーンはこのときの経験に由来するものか。東独人の経営者層は日本人とちがってディベートの訓練を受けていた。それも鉄壁のクレムリン式ディベートであるから、彼らと特に契約の話をする際は相当な準備が必要である。日本側のボスと相手のボスが論争しているのを垣間見たことがある。些細なことを二日も三日もかけて議論し、やっと契約の一行を書き終える。我々実務部隊からみると時間の浪費のようにみえるが、東独も議論の結果に基づいてきっちりと契約し契約完了まで不合理な要求をすることはなかった。元来のベースの契約は「強欲な市場原理主義者の」日本の商社と「権力欲の塊の共産主義者である」東独輸入公団の間で決着がついていた。現場事務方のでる幕は少なかった。
6)日本と東独の時差は8時間と・・・
RENAK社の技術者やワーカーたちと定期的に親睦パーティを開いた。パーティで、一人の技術者が私たち日本人に尋ねた。「日本と東独の間の時差は何時間?」日本人同僚は答えた「時差(遅れ)は8時間と15年」。相手の技術者たちはすぐに理解した。技術の遅れは彼らのせいではなかった。東独一般の若い技術者たちはまじめで何とか技術を吸収しようとしていたのでこちらもそれに応えたかった。したがってこれは大変失礼な発言だったといまでも思い出す。さて日本より「15年遅れている」技術を近代化するために日本の高度な設備を導入することになったわけだが、結果的には東独サイドの思惑通りにはいかなかったかもしれない。事前に打ちあわせで日本に何度か設計者や技術者を送り込んだり、設備が完成した後にも仕様の確認や使い方のトレーニングで各ラインごとに担当者が日本に来て予定通り準備が進んだ。しかし、設備が東独の現地に据え付けられて、専門家、特に電気部門の専門家が首をひねり出した。彼らは契約書に書いてある「最新の設備」が導入されることを期待していたが旋盤は数値制御で作動せず、組み立てラインの検査機は最新のコンピュータでインテリジェントに処理されなかった。日本にきて設備を確認したのは、RENAK社の現場のスペシャリストではなく、国家が日本への出国を認めた成績の良い忠誠心の高いその方面の関係者であった。彼らは、契約の中味や最新の技術よりは仕事の合間の京都観光や東京での買い物の方に関心が高かったのかもしれない。現場の専門家からの報告を受けたRENAK社プロジェクトマネージャーは、日本側に迫った。どこが「最新形か」と。当時は、(ひょっとしていまも)輸出貿易管理令の中にはココム規制とよばれた共産圏への輸出規制品目があり高度技術や高性能コンピュータやシーケンサは対象となっていた。そのため旋盤は油圧シリンダとリミットスイッチで動き、検査機のコンピュータは8ビットCPUの時代遅れのものであった。個人の私でさえ当時の16ビットパソコンPC-9801をすでに所有していた。日本側も高度なNC制御や高性能コンピュータを使うほうが精度もよく制御もプログラム修正も楽なので使いたかった。契約書なるものに「最新(newest)」という抽象的な文言を使ったことも問題であったが、お互いの国の体制の理解の違いに起因した少し悲しいすれ違いであった。
新工場を効率よく運用するための資材不足、人材不足、品質確保の面で問題があった。生産ラインが安定し3直量産体制に移行して問題点はさらに広がった。夜中のシフトでは、ノギスや工具類が消えた。夜中のシフトが終わって若いライン長がバツ悪そうに報告に来た。私は自分の使っていたノギスをライン長に渡して再発防止を指示した。人による生産管理システムは機能していず、外注部品の納期遅れやオペレータが集まらなくてラインはよく止まった。東独基準に照らし合わせると合格品であったが「品質の良くない素材」も入荷した。ベトナムやキューバからの外国人労働者もいてライン長はコミュニケーションにも苦労したと思う。いくら「最新」の技術や設備があっても周辺の環境が整備されないと意味がない。東独も欧州の一員であるので戦前から引き継いでいるISOの概念で品質管理をしていた。生産ラインではオペレータは機械で加工し、検査員は製品の検査をと決められた通りの仕事をする。しかし、検査員がラインで不良品の印を記録用紙に記録してもラインは止まることはなかった。検査員は不良品の有無関係なしに次々と検査だけをこなしていた。ISOの運用の悪さなのか、東独社会固有のものの考え方なのかトータルで品質管理する仕組みにはなっていなかった。
7)東独と情報、通信事情
ライヘンバッハの工場で仕事をする時RENAK社は私たちに部屋を用意してくれていた。1989年私は日本人一人で滞在していたので、スタッフ部門が働く事務所棟の一室で仕事をした。事務所棟の各部屋には国中のオフィスがそうであるようにホーネッカー議長の写真が壁に掛けられており、私ももれなく終日彼に見守られながら仕事をしていた。工場の設備の調子が悪いとすぐ現場行き、RENAK社のライン長やメンテナンス部隊と一緒に対策する。月に何件か設備故障があり、現場で対策できない時は日本へ報告、相談する。事務所には、日本と連絡とりあうツールとして電話とTELEXがあったが、FAXはなかった。手紙、封書は日本に着くのに一か月以上かかるし、必ず開封検閲される。インターネットが日本社会に広がるのもずっと後だ。電話はまずベルリンの電話局(海外向け)へダイヤルする。この国では何も急ぐ必要はない。定型のドイツ語のテープ音声が流れてきて、受話器をもったまま待つこと早ければ30分でオペレータが出てくれる。定型のドイツ語で日本へつないでもらうが、ここでも英語とかで頼もうとすると即切られてしまう。時々日本との通話中に回線が突然一方的に切断されることがあった。この場合にも再度一からやり直すことになる。現地滞在の長い日本人は「通話はすべて録音されているので長話は禁物、録音テープが切れたら通話も切られてしまいます」という。分かり易い。設備の技術的問題点の連絡はスケッチを描いてFAXで送りたいので、週末に西ベルリンへ移動してホテルからまとめて送信する。文字情報だけならTELEXを使う。タイプライターで文字を打っていくと紙テープに穿孔機がパンチ穴をあけていって一列8孔の組み合わせでアルファベット一文字ができる。これで文章をつくるが長文になるとタイプ打ちを失敗する。はさみと糊で手直しする。このテープを読取り機に読ませ電話回線で送ると、読み手側は同じ穿孔機をもっていて紙テープで受信でき、タイプライターと連動させれば文章として読むことができる。金曜日は紙テープを作成し、日本へ送信することで一日が終わった。こうしてゆっくりとした東独時間が流れていった。工場のワーカーも事務所のスタッフも金曜日の午前中で、誰もいなくなった。
8)1989年11月突然の壁崩壊
クラッチ新工場建設プロジェクトも主体契約工事とあわせ一次、二次改造工事も無事検収されて、引き続きメンテナンス契約期に入った。私は日本と東独ライヘンバッハとを往復することになる。1989年7月~8月にも東独現地に滞在し、メンテナンスの仕事をした。設備には2、3の小さな改修の案件があっていったん日本に戻ることになった。この年の10月に東独は建国40周年を迎えることはわかっていた。
新工場建設1984年には、35周年の記念行事があって私たち日本人も大きな看板の前で写真を撮った。記念の年に大きな事業を成功裏に完成させてIFAの幹部たちやRENAK社の上層部は今後の自分たちの評価に自信を持ち一息つけたことであろう。この時、私も彼らも五年後の1989年の40周年に何が起こるのか想像することさえできなかった。
建国35周年記念看板の前で(1984年) ライヘンバッハの小学校にTVを寄付(1989年)
というわけで次回の出張はその年の11月ごろにとぼんやり計画した。日本に戻った私は次の東独出張に備えた。東独クラッチプロジェクトの第二次改造工事も成功しそれなりの利益があって気持ちには余裕があった。しかし東欧方面からはポーランドやハンガリーの民主化のニュースが日に日に増えてきていて6月には天安門事件があり、確かに世界がどこかに向かって動き始めているのは感じ取っていた。8月には民主化が先行していたハンガリーの汎ヨーロッパピクニック運動でオーストリア国境に集結した東独の人たちはオーストリア経由で西ドイツへ移動していった。10月になるとチェコのプラハにある西ドイツ大使館に集まった東独市民は西ドイツへの亡命に成功する。市民をのせた列車はプラハからドレスデン、ライプチヒを通って西ドイツへ抜けた。列車が東西国境を越えてすぐ西ドイツ側にあるホフHOF駅に到着し、歓喜する列車内の東独市民や歓迎する西ドイツ市民の様子をテレビで見た。涙が出た。私がみた強がりで気高きふるまいを装っていた東独人も素直に感情を表に出して喜んだ。RENAK社の技術者や現場のライン長やオペレータの顔が浮かんだ。いま直ぐ飛んで行ってこの瞬間のかれらの思いを聞いてみたかった。現地に滞在した際に私たち日本人は金曜日の夜行列車でその日テレビでみたホフ駅経由でニュルンベルク、ミュンヘンへと自由に旅ができた。当初なんの知識も思いやりの心も持ち合わせていない意識レベルの低い私たちは週末での華やかなミュンヘンでの楽しいひとときをみんなの前で自慢げに話したがった。だまって聞くしかない「移動の自由のない」東ドイツ人の技術者たちのあの何とも言えない物悲しい表情を忘れない。以降週末の西側への小旅行の話は一切しないようにした。
やがてライプチヒでの月曜デモは拡大していき東独全土に広がりその大きな流れに押されるように11月9日にベルリンの検問所が解放され東独市民はその「移動の自由」を手に入れる。
ベルリンの壁崩壊後の様子(1990年) ベルリンの壁崩壊後の様子(1990年) 在ベルリン商社スタッフ撮影
9)東独企業の消滅
1989年11月に予定していた私の出張計画は当然立ち消えた。私が現地に直前まで宿泊していた住居には次の出張のために衣類、生活用品、食品と現金数百マルクを部屋の鍵付きクローゼットに保管していた。のちにライプチヒの放送局MDRが日本へ取材にきて、我が家にも寄ったのでクローゼットの鍵を渡して、見つかればすぐ連絡してもらえるよう依頼した。まだ私の30年前の荷物は見つかっていないのでMDRのドキュメント番組“壁崩壊と消えた日本人のダンボール箱”は制作されていない。その荷物、当時は個人的には気になるところだったが私以外誰もそれどころではなかった。
ドイツでは東西ドイツ統一の話が一気に進みだし東独企業は存続をかけて西ドイツの会社との提携や資産売却の話を進めていった。私の勤めていた会社の上層部も急遽商社を伴ってRENAK社のあるライヘンバッハへ飛んだ。わが社はRENAK社をヨーロッパでのクラッチ製造販売の拠点としたかったしRENAK社は事業を継続でき雇用も守れるので提携やら買収は互いに良い話ではあった。お互い壁の崩壊や統一を興奮気味に語り一時は熱く抱擁して歓びを分かち合って、よい雰囲気のままいよいよ交渉成立かと思われたが、最後は決裂した。私の勤めていた田舎の会社にとっては高額過ぎる投資であった。その後RENAK社も他社との交渉失敗したのかRENAK社は消滅した。競争力のない東独企業に興味を示す西側企業はすくなかった。両社の技術者が時には喧嘩をしながら手塩にかけて稼働させたあの「最新の設備」は東ドイツからさらに東の方へと二束三文で売られていった。働いていた人たちもほとんど今はライヘンバッハに居ないという。かくして私の東独での仕事は完全におわりを告げた。そしてベルリンの壁崩壊後たった一年間で東西ドイツは再統一した。統一後の東地区の経済状況をみると東ドイツは西ドイツに包含、吸収されたという表現のほうがが正しいかもしれない。多くの国営企業は国営企業ゆえ西側企業に対し競争力がなく倒産するしかなかった。東ドイツの人々はあの歓喜のベルリンの壁崩壊と裏腹に、非常な現実に直面する。統一ドイツにより旧東独企業を救済するプログラムが施行されたが東独企業に興味を示す西側企業はすくなく、東独地区の失業率は50%を超えた。「15年遅れ」の技術しか持たない技術者は新しい職場を見つけられなかった。彼らは東西冷戦の犠牲者であった。国境の壁の中に閉じ込められていてすれていないある意味素朴な技術者たちの大半は資本主義の弱肉強食社会の荒波に向かってどう対処したのだろうか。考えただけでも胸が締め付けられる。この時の変化点は私の人生にとっても大きな影響をあたえたが、東独の人たちにとっては数十倍大きな試練となったであろう。
9)統一後の旧東ドイツ 15年ぶりの再会
統一後の1991年に統一ドイツを訪れた。ベルリンの街はまだ統一の興奮さめやらぬお祝いムードにあふれ活気があった。すでに街のあちこちで建築工事も始まっていた。メディアでは統一の明るい話題だけでなく東地区の経済立て直しや失業の問題など混乱の状況も報じていた。この時私は旧東ドイツ地区に入ることができなかった。混乱の中生活のために今までと180度異なる社会で必死に順応し、職場を探し新しい慣れない職場で苦労しているであろう彼らを見るのはつらいし、会っても彼らに掛ける言葉はもちあわせてはいなかった。かっての仕事仲間たちの誰にも会わず、ベルリンの壁の破片を土産に帰国した。
時は過ぎて2004年、出張でドイツを訪れる機会があった。私は、合間を見つけて1984年にクラッチプラントを立ち上げたザクセンのライヘンバッハを訪れた。15年ぶりの思い出の地である。駅舎はきれいになり駅前も整備されていた。駅からタクシーで当時働いていた工場跡地へ直行した。駅舎もタクシーの窓から見る街並みもまるで「西ドイツ」そのものだった。ドイツ人は今も昔も韻を踏むのが好きだ。私の印象に水を差すようにタクシー運転手がぼやく「Ein Deutsch, Alles kaputt!」タクシーの運転手はどこの国でも景気などに敏感なので適格に表現したに違いない。跡地に新たに建てられた工場群が見えてきた。大きな建屋にはベルギーのバルブ会社の名前があった。工場のセキュリティゲートである人物の名前を告げると、電話をある工場の事務所につないでくれた。女性が電話に出て今彼は外出しているのであなたのいる場所をいえばそこへ行くからと言った。
私には確信があった。1989年以降15年間何のコンタクトもしていないが、彼は必ず統一時の困難を克服し、それももともとあったRENAK社の工場近くにいるのではないかと。やはりここにいた。一時間後、彼は指定した街の中心の郵便局の前にBMWに乗って現れた。言葉はいらなかった。長い間会えていないが工場立ち上げでともに苦労し、東西ドイツ統一時の喜びや苦難もそれなりに共通認識があった。固い固い握手で再会を喜び合った。彼はどうしてあの場所にいるのがわかったのかと聞くので、私には東ドイツ人の心が読めるのだと答えたが、本当によく彼を見つけたと思う。彼は機械製造会社を経営していた。経営している工場を案内してくれたが、その工場はかっての新設工場に併設していた工機工場だった。彼は1984年設備導入時の据付け部門のリーダーであったのでその筋の知識経験は問題ない。所属していたRENAK社が倒産した後、彼は別会社を買い取って経営者になっていた。統一時通常は西側企業が救済の意味を込めて東側企業を買収、吸収したが、彼のようなケースもあったのには驚いた。資金をどう工面したのだろう。彼の工場は当然ながら効率やアウトプットを重点にした経営で3S(整理、整頓、清潔)よくできていて、壁に貼った出来高のグラフや技術アピールは日本の大企業で見るものと同じだった。ドイツ大手の自動車メーカや電機メーカに自動化設備を納入していて業容は拡大し利益も出ていた。国が消滅して東ドイツ出身者が大半うまくいかなかったのに彼は実にうまくやっていた。彼は当時のRENAKの技術者や工場ワーカーはこの街にはほとんどいないという。この時の東地区の失業率は25%と彼は嘆いた。
10)現在の人々の人心
それ以来、彼とは旅行の度にライヘンバッハやツヴィカウで会った。私は退職し、彼は会社の経営を息子に譲るようになった。彼と会う時の話題はいまだに縮まらない旧東ドイツ地区と西ドイツ地区の経済格差の問題であった。統一後生まれた若者や、西より年金の少ない東地区の高齢者にとっては大きな不満となっていた。旧友の彼によると2019年時点では失業率は西地区と大差ないが、給与水準ははまだ25%程度差があるという。ドレスデンやライプチヒは観光や産業で人が集まっていたし、フォルクスワーゲンの工場を誘致したツヴィカウも潤っていたが、ザクセンの田舎の方へいくと街中には朽ちた無人の家屋があったり、閉業したホテルが手つかずのまま放置されていたりと確かに格差はあった。しかし、総合的に、包括的に判断するとどうだろうか。私は全ての東地区の街を見たわけではないが、それでも格差は改善されているか改善の努力がされ続けているように感じた。対比しても意味があるのかないのか、今の東京や大阪と私の生まれた丹波篠山市の格差よりははるかにましだ。
2019年8月末に東地区の田舎町ライヘンバッハやアルテンブルクを訪れた。東地区のザクセンとブランデンブルクの州議会選挙の投票日直前であって人影のない小さな街の通りはポスターを貼った看板ばかり目に入る。極右政党でネオナチ思想を持つと言われているAfDの強面の候補者のポスターが印象に残っている。1989年のライプチヒのデモで参加者たちはろうそくを手にシュプレヒコール「Wir sind das Volk」(我々こそが人民だ)を叫んだ。デモの波は国中に広がりやがてベルリンの壁を崩壊へ、東西ドイツ統一へ向かわせたが、その30年後今度は極右政党AfDは選挙で同じスローガン「Wir sind das Volk 」を叫んで旧東ドイツ市民を分断へ向かわそうと煽る。この選挙でザクセン州の第一党のCDUは大敗しAfDは大躍進した。自らを「二級市民」と呼び、西地区との格差や、自らの職場を脅かす難民の流入に不安や不満を持つ東地区市民の支持を得た、と分析された。だが半年後状況は一変する。2020年3月、新型コロナが蔓延し、ドイツメルケル首相は外出制限に理解を求めるメッセージで“こうした制約は、渡航や「移動の自由」が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです”と呼びかけた。国民に共感し寄り添い共に苦難を乗り越えようとする姿は、再び大きな支持を得た。メルケルのスピーチで自らが苦労して獲得した「移動の自由」の価値の大きさを再認識した市民は東西格差は残るが、分断にもどるのではなくまた前へ進もうとしたに違いない。
街中の州議会員選挙ポスター ライヘンバッハ(2019年8月)
2.「表現の自由」とシュタージStasi
1)私と旧友M.F
1984年に始まった東独ライヘンバッハにおける新クラッチ製造ラインの立ち上げで私はスーパーバイザーとして現地VEB RENAK社の技術者と共に毎日工場の中で働いた。日本から送った設備の据え付け、調整、稼働までを担当する。チーフスーパーバイザーなので2、3ライン分の日々の計画の進捗、次の日のワーカー手配、必要ユーティリティの確認、重機の確認等仕事量は多かった。準備は出来ていたはずであったが予期せぬ問題が連日発生しRENAK社の技術者とヘルメットをかぶり工場内を走り回った。人生はじめての慣れない海外での仕事で今のような携帯はなく、また英語を話さないRENAK社の技術者とドイツが理解できない日本人の私は日独の通訳数人はいたがコミュニケーションで大いにストレスを感じた。この時のRENAK社側の設備据え付け責任者が現在も交流が続く、M.F 氏である。計画を先読みし次々と梱包を解いて新しい設備を正確に据え付けてくれた。人、物、金のマネージメントは効率的で決断早く完璧であった彼には目に見えないところで助けてもらっていた。
2)30年越しに知ったシュタージStasi
私と彼は2004年15年ぶりの再会を皮切りに、交流が続いていた。私も退職し、同年齢の彼も会社経営を息子に譲っていた。2019年9月ドイツを訪れていた私は彼を食事に誘い会う事になった。場所はドレスデン、フラウエン教会のそばのレストラン。約束した14時きっかりに彼はやってきた。この日の出会いは、私にとって1989年11月9日と同じくらい衝撃的なものとなった。私は学んでいるドイツ語や趣味のピアノの話、彼の会社の新製品や業績の話の後、私自身のシュタージ文書開示請求の話をした。2015年に訪れたベルリンのシュタージ博物館では、東独の秘密警察の役割をはたした国家保安省が社会主義体制維持のためどのような組織で、どんなツールを使って東独市民の情報と行動を監視してきたかを知ることができる。その下部組織の場所を示した膨大な数のプロットの地図をみて驚く。密告資料やシュタージ幹部の部屋も見ることができる。国家が国境や街中で自国民を監視するのにどれだけの投資をしたのか。市民同士を監視させるというなんと冷酷なシステムを造ってしまったのか。ベルリンの壁が開放されて、自分たちの過去の所業が暴かれるのを恐れたシュタージは1990年1月に民衆が国家保安省の建物に乱入する前に資料を燃やしたり細かく刻んだりした。統一後に造られたBStU(連邦シュタージ文書管理局)はそれでも大量に残された機密文書のアーカイヴ化や細切れになった紙片を専用ソフトウェアによりつなぎ合わせ元の文書を復旧、復元した。それらの文書は誰でも開示を請求できる。元々自分に関する機密文書の存在に強い興味があった私は博物館の展示を一通り見た後、受付で係官に説明を受けながらその場でBStUに文書公開を申請した。東独に滞在した期間、場所、目的や個人情報を記入した。帰国後しばらくすると申請受理の連絡があり数か月後、現状では私に関する機密文書は存在しないが、復元中でもあるので1年後督促をするようにとBStUから書面が届いた。結局督促のやり取りの後私の文書は存在しないという最終回答の書面を受け取った。シュタージのIMには密告ごとに報酬が支払われていたが日本人は対象外であったのか。自国民を監視するのが主目的であったのか。
シュタージ博物館展示 機密文書書庫(2016年) シュタージ博物館展示 盗聴手段(2016年)
シュタージ博物館 屋外展示(2016年) シュタージ文書開示請求申請書と回答書(2016・2018年)
壁崩壊後彼と直に会うのは何回目だろう、いままではこの類のテーマは避けてきた。ベルリンの壁崩壊後30年経過しているが非常にナーバスなテーマである。私がシュタージ文書の話を切り出すと、彼も自身のシュタージ文書のことを話しだした。彼はとっくに調べていたのだろう。なんと数百ページに及ぶ自身の報告文書が見つかったという。長期間にわたり密告されていた。彼はその密告者シュタージのIM(非公式協力者)であった氏名も明かしてくれた。信じがたい話であるが、私が東独滞在時に一番長く接触していたRENAK社の通訳(英独)のFreixxxxであった。RENAK社のプロジェクトマネージャーとの交渉や内密の話し合いにも絶えず通訳の彼がそばにいた。彼は技術用語もある程度理解していたし要領よく通訳してくれたので私たち日本人だけでなく私の友人を含むいずれのRENAK社のメンバーも100%の信頼でもって彼に接していた。彼は製造現場や会議室だけでなく、パーティやイベントにも顔をだした。したがって彼は様々な人、物、金の状況、情報を把握することができた。シュタージへの報告の内容に事欠かなかったであろう。彼は同僚とともに日本にも通訳として来ている。私は彼らを神戸、京都や名古屋を案内した。彼は監視役だったのかもしれない。私は30年前のこの事実に驚くとともに、怒りや当惑を覚えた。もちろんシュタージのことは知っていた、映画「善き人のためのソナタ」のなかのこととして。しかしこんなすぐそばに、あんなに信頼していたのにと、誰もが冷戦の被害者だったとしても30年経った今も我々はそれに憤る。あんなに心開いてうちとけていたのに。
私と友人のM.F氏のやり取りの一部を紹介する。温厚な友人はIMの通訳を豚Schwein、人間の屑Abschaum、最悪Schlimmsten、狡猾Cleverstenといった、激しい辛辣な言葉を使って非難した。壁崩壊後シュタージやIMのメンバーが暴かれることによって、友人関係や夫婦関係が壊れる話を聞いた。
パーティで3人楽しく乾杯(1988年)中央に立っているのが私、写真の私の左隣が友人、右隣ネクタイが通訳のシュタージM(非公式協力者)
メールの抜粋、怒りの言葉が並ぶ
友人のM.F氏はもう一人私に当時のシュタージによって迫害をうけた人物を紹介した。ウッツUtz Rachowski氏。(https://www.bz-berlin.de/artikel-archiv/der-fall-reichenbach)若年のころからたえずシュタージの監視下にありながら体制を批判し、キャリアや友人を失い最終的に逮捕される。国家反逆、扇動の罪で27か月間投獄の判決を受け、その後、10万ドイツマルクと引き換えに西ベルリンに国外追放される。追放は名目で、実態は厄介者ばらいと外貨獲得であるが。因みにUtz Rachowski氏はライヘンバッハで生まれそして私の友人M.F氏の当時の同級生でもあった。私の友人は非常に厳しい青年時代を過ごしてきた。学校時代にはシュタージに教室を追われていく抑圧された同級生をみて、職場では絶えず自分を監視するシュタージのIMがいた。壁崩壊は突然起きたわけではない。こういった苦難に耐えて乗り越えていった人たちから生み出されるエネルギーが蓄積され、それが一気に爆発したのである。
会員 谷舗 秀樹
谷舗 秀樹さま
前略、失礼いたします。
たいへん感激、感動、オスタルジーの気持ちで読ませていただきました。
小生も1982年―1986年に東独プロジェクト、EKO鉄鋼コンビナートで勤務していました。
契約交渉の段階から言えば、8年近く関係していたかと思います。他のプロジェクトにも関与してました。
壁崩壊、統一へ至る時期はTBSの報道番組のコーディネータをしていました。その後は
ミュンヘン、ボン、ベルリンで環境ジャーナリストとして活動してました。
10年ほど前に三田市へ移住。毎年渡独してましたが、コロナで最近は行けてません。
小生も本来は丹波篠山大山出身です。
非常に詳しく書かれた内容で、驚きました。写真も多く、小生はほとんど意図的に写真を写しませんでした。
当時の思い出写真がないので、残念です。
なお、月刊廃棄物に、旧東独の廃棄物、資源廃棄物の有効利用システムについてオスタルジーとして寄稿しています。
月刊廃棄物ー日報
https://www.nippo.co.jp/rd/
2022年12月号ー2023年5月号です。
草々。
中曽利雄。78歳の三田在住老人、非会員。