ドイツ四方山話

《読書案内》あの時、人は確かに「英雄」を見た―樺山紘一『《英雄》の世紀』

ルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン(ウィキメディア・コモンズより)

 

昨年12月、偉大な音楽家ルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン Ludwig van Beethoven(1770-1827)が生誕250周年を迎えました。彼が生きた約200年前の欧州は、1789年のフランス革命に始まる激動の時代。かの軍人皇帝ナポレオン・ボナパルト Napoleon Bonaparte(1769-1821)も、この時代に活躍した人物です。そんな両者の関係を物語るものとして、このような逸話があります。1804年5月18日、共和主義の体現者だったはずのナポレオンが、君主たる皇帝に即位します。この報に触れたベートホーフェンは、自分が作成していた楽譜の最初の頁を二つに破って、床へ投げ捨ててしまったそうです。この作品はのちに第三交響曲「英雄 Eroica」という名で知られることになりますが、元の表題は「ボナパルト」だったと言われています。ナポレオンに「英雄」の姿を見ていたベートホーフェンは、彼の戴冠に卑俗な野心を見出して失望したというのです。もっとも、この逸話の真偽は定かではありません。しかしながら、この作品が「英雄」という名を冠して世に出されたように、ベートホーフェンが「英雄的なもの」に対する信頼と期待を確かに持ち続けていたことは明らかです。今回は、樺山紘一『《英雄》の世紀』を紹介します。

 

樺山紘一『《英雄》の世紀』(講談社公式サイトより)

 

「英雄」とは何か

本書は、2002年に出版された同じ著者による新書『エロイカの世紀―ベートーヴェンと近代の創成者たち』の新装版です。「エロイカ Eroica」とは、イタリア語で「英雄」のこと。元々はギリシア語の「ヘーロース hērōs」という単語から来ていますが、古代ギリシア神話では半分神様で半分人間だというような存在を指していました。この世に生きる一介の個人でありながら、神様のように傑出した能力を発揮する存在。動乱の時代に生きた小説家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe(1749-1832)、哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル Georg Friedrich Wilhelm Hegel(1770-1831)、そして音楽家ベートホーフェンといった「ドイツ人」たちは、「フランス人」たちを率いたナポレオンという一人の人間の中に、普遍的な「英雄」の姿を見ていました。

 

ジャック=ルイ・ダヴィド「ナポレオンの戴冠式」(ウィキメディア・コモンズより)

 

群像劇としての歴史

本書は、こうした「英雄」に対する「ドイツ人」たちの眼差しを軸に、18世紀の啓蒙主義の時代(第二~四章)、18世紀末から19世紀初頭に跨る「ナポレオン革命」の時代(第五~七章)、そしてナポレオン没落以降のロマン主義の時代(第八~九章)を描いています。それは、「英雄的なもの」を渇望しながら自由と個性を求めた人々の群像劇。新たに追加された「学術文庫版あとがき」によれば、著者はこうした群像の一部を成すベートホーフェンにさえ「英雄」の姿を見たといいます。

 

樺山紘一『エロイカの世紀』(講談社公式サイトより)

 

「英雄史観」の可能性

かつて歴史家トーマス・ニッパーダイ Thomas Nipperdey(1927-92)は、近代ドイツ史の出発点をナポレオンに求めました。「ドイツ」を侵略し、またその改革を促進した「英雄」への期待や反感を通じて、ドイツ史は近代を迎えたということです。「この基本的な事実を軽視することができるのは、イデオロギーに影響されて権力という現象に目を閉ざすようになり、もっぱら社会と「内政」のみに、そして構造のみに注目するような人たちだけであろう」(トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史1800-1866 上』9頁)。ナポレオンのような英雄的個人に重きを置いて歴史を語ることは、度々「英雄史観」として批判の的となります。確かに、こうした批判と共に促進されてきた「社会史 Sozialgeschichte」の研究は、過去を巡る歴史的な思考を豊かにしました。しかし、個別的でありながら普遍的な、人間的でありながら超越的な、一回的でありながら再現的な「エロイカ」に注目して過去を俯瞰するならば、歴史的思考はもっと豊かになるでしょう。あの時代の人々が「英雄」を見たのも、確かなことなのです

 

トーマス・ニッパーダイ『ドイツ史 1800-1866 上』(白水社公式サイトより)

 

<書誌情報>

樺山紘一『《英雄》の世紀―ベートーヴェンと近代の創成者たち』講談社学術文庫、2020年

<参考文献>

樺山紘一『エロイカの世紀―近代をつくった英雄たち』講談社現代新書、2002年

ニッパーダイ, トーマス『ドイツ史 1800-1866―市民世界と強力な国家 上』白水社、大内宏一訳、2021年

 

文責:林 祐一郎(大阪日独協会学生会員・京都大学大学院文学研究科修士課程)

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