『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本をご存知でしょうか。これは、近代ヨーロッパで資本主義が発展した背景に、禁欲的なプロテスタンティズムという宗教的な要因があったことを明らかにしようとした、宗教社会学の泰斗マックス・ヴェーバー(Max Weber, 1864-1920)の主著です。今年は、政治学や経済学の分野でも名を残したそのヴェーバーが亡くなってから百周年。日本では「ウェーバー」とも表記されますが、本邦でも彼の伝記が執筆され、「ウェーバー」伝と「ヴェーバー」伝が同時期に出版されました。
野口雅弘『マックス・ウェーバー』は、「ヨーロッパ近代」を診断したヴェーバーがどんな思想を展開したのか、また彼の思想が同時代の他の思想家たちにどんな影響を与え、後世の人々が彼の著作をどう読んできたのかを網羅した著作です。ここで著者が特に重視するのが、自分や自国の「ありのまま」を素朴に肯定するのではなく、他者や他国との違いを見つめて自らを反省的に捉え直そうとする「比較のエートス」です。著者は、ヴェーバーが『宗教社会学論集』で世界各地の宗教や文化を比較したように、日本人も「ヨーロッパ近代」に生きた「他者」としてのヴェーバーの思想を自分たちの問題関心に沿って読むことで、日本社会の在り方を批判的に問い直してきたのだと言います。とりわけ日本の歩んだ「近代」を批判的に見直そうとした戦後日本の知識人たちにとって、ヴェーバーは「近代と格闘した思想家」だったのです。
これに対して今野元『マックス・ヴェーバー』は、ヴェーバーの思想そのものよりも人格に焦点を当て、全く別のヴェーバー像を描いています。敢えて単純化すると、野口書が「光のヴェーバー」を描いているとすれば、今野書が描いているのは「闇のヴェーバー」でしょう。これまで「主体的英雄」として称賛されてきたヴェーバーは、実は熱狂的なドイツ・ナショナリストであり、ポーランド人やカトリック勢力を知的に劣った存在として蔑視していました。第一次世界大戦では対独包囲網に「俺のケツを舐めろ」と啖呵を切り、戦後は敗戦国ドイツに対する道徳的な批判も拒否しました。「独立自尊」と「傍若無人」という両面性を有する思想家ヴェーバーの人生は、「主体的人間の悲喜劇」として描かれています。著者は、個々の作品解釈より思想家個人の人格形成に注目する「伝記論的転回」という思考の転換こそ、思想の全体像を把握するためには必要だと言います。
最後に、ヴェーバーとドイツ史に関する興味深い論点に触れておきましょう。それは、かの独裁者アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)との思想的な関連です。ヴェーバーは民主的な選挙による強力な指導者の出現を期待していたことなどから、ドイツでもヴェーバーとヒトラーとを比較しようという試みがありました。この点に関して、野口書は第六章「反動の予言」で、今野書は終章「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」で論じています。結局、ヴェーバーはヒトラー政権の成立を見ることなく1920年に56歳の若さで急逝しましたが、もしも彼が長生きしていたら…と考えてみるのは、良い思考実験かもしれません。
<書誌情報>
野口雅弘『マックス・ウェーバー―近代と格闘した思想家』中公新書、2020年。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/05/102594.html
今野元『マックス・ヴェーバー―主体的人間の悲喜劇』岩波新書、2020年。
https://www.iwanami.co.jp/book/b508161.html
<その他参考文献>
今野元『マックス・ヴェーバー―ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』東京大学出版会、2007年。
http://www.utp.or.jp/book/b305698.html
野口雅弘『比較のエートス―冷戦の終焉以後のマックス・ウェーバー』法政大学出版局、2011年。
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-60322-8.html
大阪日独協会学生会員・京都大学大学院修士課程 林 祐一郎
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