ドイツ四方山話

《読書案内》戦後を生きた歴史家の古き良き「ドイツ史」—坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』―

フランクフルト国民議会(1848~1849年、ウィキメディア・コモンズより)

大阪日独協会の会報が電子化され、紙幅に制限がなくなったことから、筆者が2020年7月より「読書案内」を始めて以来、早くも二年半の月日が経とうとしています。あの時は本来ベルリンで勉学を積んでいる予定だったのですが、同年春頃に全世界へと拡散した新型感染症のゆえに、一年続くはずだった長期留学を半年で切り上げ、筆者は四日市の実家に籠っておりました。しかし、今年の春から再び長期滞在の好機に与り、遂にベルリンへ帰ってきました。この節目の時期に、毎月の「読書案内」は一旦お休みにして、滞在中は現地事情を紹介する記事をお届けしたいと思います。「読書案内」とは暫しのお別れということで、今回は最新の概説書ではなく、多少古くても、筆者が本心から皆さんに読んでい
ただきたい本を紹介します。それは、坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』です。

『ドイツの歴史百話』(刀水書房公式サイトより)

『ドイツの歴史百話』(刀水書房公式サイトより)

「ドイツ史の語り部」
本書の著者である坂井榮八郎さんは、ドイツ史を専門とする東京大学の名誉教授。日本人のドイツ史研究者なら、この人を知らない者はまずいないでしょう。『ドイツ史10講』という平明な新書も出版されています。1935年に生まれた彼は、第二次世界大戦を経験した後、教養主義的な旧制高校の伝統を色濃く残す、東京の武蔵高校でドイツ語を学んだといいます(「おわりに」)。東西冷戦の始まりから終わりまでを見つめてきたのは勿論のこと、彼がマールブルクに留学していた1960年代、西ベルリンで日本史を講義していた1970年代は、ドイツだけでなく世界的に学生運動が盛り上がっていた時期です。こうした時代の証人として、彼は本書を単なる概説書ではなく、随筆集と位置付けているようです(「
はじめに」)。したがって、本書は時系列的に様々な出来事を扱いながらも、そこに自己を必ず介在させています。

『ドイツ史10講』(岩波出版社公式サイトより)

『ドイツ史10講』(岩波出版社公式サイトより)

歴史的基礎への敬意
こうした諸々の随筆から滲み出るのが、現在を成り立たせている歴史的な基礎への敬意です。著者が近代史家でありながら古代や中世にも深い関心を抱き(第1話、第60話)、またドイツの伝統として地方分権的な連邦制を殊更重視するのも(第98話)、この文脈で捉えることができます。これは、著者の政治的な価値観にも言えることです。彼が歴史学の道を志した戦後日本は、「歴史の法則」や「階級闘争」を見出そうとする左派のマルクス主義史学が全盛の時期(第90話)。著者はこうした動向に不満を覚え、共産主義や社会経済史ではなく自由主義や政治思想史に取り組み、具体的な人物の思想と行動からそれぞれの時代を追体験することを望みました(『ゲーテとその時代』)。日本のドイツ史学界でリベラルな社会構造史家のハンス=ウルリヒ・ヴェーラー Hans-Ulrich Wehler(1931~2014)が持て囃されていた中、(ヴェーラーと同じ社会民主党員ではありますが)「保守派」と目されてきた好敵手のトーマス・ニッパーダイ Thomas Nipperdey(1927~1992)を著者が敢えて熱心に紹介したのも、ここから理解できます( トーマス・ニッパーダイ(坂井榮八郎訳)『ドイツ史を考える』)。

フランクフルト国民議会(1848~1849年、ウィキメディア・コモンズより)

フランクフルト国民議会(1848~1849年、ウィキメディア・コモンズより)

「一里塚」を超えて
ただし、著者は同時代のマルクス主義史家や社会構造史家と比べれば「保守派」でも、ヴァイマール時代に民主主義が成熟しなかったことを残念がったり、平和的な欧州統合に期待したりしているという点では、「進歩派」に属していると言えます。ニッパーダイと同じ、いわゆる国民自由主義者と呼んでも良いでしょうか。確かに、東西統一を歴史の終着点だと考えれば、著者が押し出す「ヨーロッパの中のドイツ」という理念は、現状に頗る適合的です。しかしながら、時代は変わりました。事実上西側に併合された東ドイツの歴史に関する研究が深化し(拙稿「《読書案内》「壁の向こう側」ではない、もう一つの「ドイツ」」)、東西統一に対するかつての熱狂が冷え込み(拙稿「《読書案内》再構成される道程、残された分断」)、現代ドイツの自己認識も批判的に再検討されるようになった今(拙稿「《読書案内》日本ドイツ学への「異議申立」)、大戦後や冷戦後の歩みを完全に肯定することはできません。ドイツは我々にとって「先生」かもしれませんが、全知全能の「神様」ではないのです。

ベルリン自由大学歴史文化学部の拠点、フリードリヒ・マイネッケ研究所(2019年3月20 日筆者撮影)

ベルリン自由大学歴史文化学部の拠点、フリードリヒ・マイネッケ研究所(2019年3月20
日筆者撮影)

そして、我々のような後の世代の読者が意識すべきなのは、著者が本書でもって示してくれたように、自分たちが遠くの高みから過去を一方的に眼差しているのではなく、後世に回顧される歴史の中に自分たちも含まれている、という感覚なのです。筆者もこの春から、かつて著者が教鞭を執ったベルリン自由大学に客員研究員として迎えられることになりました。筆者の滞在先は、コロナ禍を経て、ウクライナを巡る戦争も長引く中で、困難かつ奇妙な状況にあるわけです。それゆえにこの歴史感覚は、今なおも光を放ち続けるでしょう。

<書誌情報>
坂井榮八郎『ドイツの歴史百話』刀水書房、2012年。

<参考文献>
坂井榮八郎『ゲーテとその時代』朝日新聞出版、1996年。
同上『ドイツ史10講』岩波新書、2003年。
ニッパーダイ, トーマス(坂井榮八郎訳)『ドイツ史を考える』山川出版社、2008年。
林祐一郎「《読書案内》「壁の向こう側」ではない、もう一つの「ドイツ」―河合信晴『物語 東ドイツの歴史』―」大阪日独協会編『Der Bote von Osaka. Berichte der Japanisch-Deutschen Gesellschaft Osaka e.V.』2020年11月26日。
同上「《読書案内》日本ドイツ学への「異議申立」―今野元『ドイツ・ナショナリズム』―」大阪日独協会編『Der Bote von Osaka. Berichte der Japanisch-Deutschen Gesellschaft Osaka e.V.』2021年12月14日。
同上「《読書案内》再構成される道程、残された分断―板橋拓巳『分断の克服 1989- 1990』―」大阪日独協会編『Der Bote von Osaka. Berichte der Japanisch-Deutschen Gesellschaft Osaka e.V.』2023年1月31日。

文責:林 祐一郎(京都大学大学院文学研究科博士後期課程・日本学術振興会特別研究員DC1)

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