本来1~3番まであったドイツ国歌『ドイツの歌』のうち、かつて公式なものとして歌われていた1番には、「マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡まで」という歌詞があります。この歌詞は19世紀にドイツが統一された当時の領土を表現しているもので、現在のドイツ連邦共和国の領土とは合致しません。ドイツは統一以来、海外に植民地を獲得したこともありましたが、二度の世界大戦と東西冷戦を経て大きく領土を縮小させました。ということは、現在のドイツの周辺にはかつて「ドイツ」だった場所が沢山あるのです。今回は、そういった場所の歴史を概観できる『旧ドイツ領全史』について紹介します。
これまで『ピエ・ノワール列伝』や『ウクライナ・ファンブック』など、「ニッチ」なテーマを取り上げてきたパブリブから出版された本書には、三つの読み方があると思います。第一に、旧ドイツ領を巡るための観光案内書として読めます。本書の前半には「歴史観光ガイド」が豊富なカラー写真と共に設けられ、旅への意欲を掻き立てます。また、本論以降でも図版が豊富に盛り込まれており、読者の目を楽しませてくれます。この本を片手に「ドイツ」の跡を辿る旅に出掛けるのも良いでしょう。第二に、旧ドイツ領に関する知識を引っ張ってくるための事典としても読めます。特に、従来の日本におけるドイツ史研究でフランスやポーランドとの「境界地域」が語られることは多くても、ベルギーやデンマークとのそれが語られることは少なく、更にベルギーのドイツ語共同体やデンマーク系ドイツ人についてまで掘り下げられることはほとんど無かったのではないでしょうか。そういう意味で、この本は非常に網羅性の高い内容となっています。
そして第三に、この本はこれまでバラバラに語られがちだった「境界地域」の歴史を、然るべき専門家が一つの叙述に纏めた歴史書として読めます。著者が言うように、ドイツ含め各国の「国民」概念に合致する歴史を部分的にしか持たない「境界地域」は、旧来の「国民史」では分断されてきたのです。もっとも、「旧ドイツ領」という括りを採用している点で、ドイツの「国民史」から完全に解放されているとは言えませんが、旧領土の歴史を描くことが一つの歴史叙述の枠組みとして歴史家から提示されたことには大きな意義があります。思うに、歴史家には事実に関する詳細な調査や検証を旨とする「科学者」という役割に加えて、膨大な事実の集積から大きな歴史を描く「著述家」という役割があります。だとすれば、著者はこうした役割を果たそうとしていると言えるのではないでしょうか。因みに、パブリブからは『第二帝国』や『ドイツ植民地研究』といった、本書の周辺知識を埋めることのできる著書も刊行されています。併せて読んでみては如何でしょうか。
<書誌情報>
衣笠太朗『旧ドイツ領全史―「国民史」において分断されてきた「境界地域」を読み解く』パブリブ、2020年。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908468445
<その他参考文献>
大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝―人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』パブリブ、2018年。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908468223,
衣笠太朗「上シレジアにおける「ドイツ人の追放」と民族的選別―戦後ポーランドの国民国家化の試み―」『IGKワーキングペーパーシリーズ』第16号、2015年、1-19頁。
https://researchmap.jp/taro_kinugasa/published_papers/23432811
同上「第一次世界大戦直後のオーバーシュレージエン/グルヌィシロンスクにおける分離主義運動――オーバーシュレージエン委員会の活動とカトリック聖職者トマシュ・レギネク」『神戸大学史学年報』第34号、2019年、1-29頁。
https://researchmap.jp/taro_kinugasa/published_papers/21811230
栗原久定『ドイツ植民地研究―西南アフリカ・トーゴ・カメルーン・東アフリカ・太平洋・膠州湾』パブリブ、2018年。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908468247
伸井太一編『第二帝国 上巻―政治・衣食住・日常・余暇』パブリブ、2017年。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908468179
同上『第二帝国 下巻―科学・技術・軍事・象徴』パブリブ、2017年。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908468186
平野高志『ウクライナ・ファンブック―東スラヴの源泉・中東欧の穴場国』パブリブ、2020年。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908468414
文責:林 祐一郎(大阪日独協会学生会員・京都大学文学研究科修士課程)
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