ドイツ四方山話

《読書案内》独裁者の評伝から考える、人物史の在り方―芝健介『ヒトラー』―

 

「ナチズム」がドイツ史を語る上で避けて通ることのできないテーマであるように、アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler(1888-1945)もドイツ史上最も有名な人物の一人です。ただし、彼はオーストリア出身で、元々国籍上は「ドイツ人」ではありませんでした。それでも、日本では神学者のマルティン・ルター Martin Luther(1483-1546)、音楽家のルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン Ludwig van Beethoven(1770-1827)、政治家のオットー・フォン・ビスマルク Otto von Bismarck(1815-98)などではなく、ヒトラーがドイツ史の代表として挙げられる傾向があります。

 

アドルフ・ヒトラー(ドイツ歴史博物館より)

 

「20世紀最悪の独裁者」(野田宣雄『ヒトラーの時代』の帯紙より)とも呼ばれるヒトラーは、皮肉にもその波乱万丈な人生や「絶対悪」という位置付けのゆえに、死後も多くの耳目を惹くこととなりました。今回は、そんな彼に関する比較的簡明な評伝として、芝健介『ヒトラー―虚像の独裁者―』を紹介します。

 

芝健介『ヒトラー』(岩波書店公式サイトより)

 

勤労な前線兵士からカリスマ的政治家へ?

本書は副題に「虚像の独裁者」と記すように、今まで通俗的に信じられていたヒトラー像を、膨大な研究蓄積から見直そうとしています。例えば、彼の主著『我が闘争 Mein Kampf』で語られる青少年時代が必ずしも経済的に困窮していた時期だとは言えないこと、第一次世界大戦での伝令兵という彼の役割は最前線から見れば安全な「後方」の仕事だったこと、若い頃から遅寝遅起きの無計画で怠惰な生活様式を身に付けていたため、権力掌握後は次第に閣議を開かなくなっていくことなどが挙げられ、ヒトラーの人生を魅力的な成り上がり物語として描くのは不適当であるとの見解が示されているのです。

 

兵士としてのヒトラー(画像中段右端、ドイツ連邦文書館より)

 

ユダヤ人虐殺と政治・戦争指導

ヒトラーが政治家として実行したことのうち、世の中の多くの人々に「悪行」として最も知られているのは、「ホロコースト Holocaust」と呼ばれるユダヤ人虐殺でしょう。本書の序盤では彼が個人的にはユダヤ人たちと交流したこともあったという逸話が記されていますが、彼が国民社会主義の指導者という足場を固めるに従って、そうした過去が封殺されていくことにも目配りされています。

 

アウシュヴィッツへの道(ドイツ連邦文書館より)

 

また、反ユダヤ主義という思想はヒトラーに特有のものではなく、昔からドイツ以外の欧米各国でも存在していたものでした。重要なのは、ヒトラーが現実世界で強大な権力を握り、相当の人員と資源を確保した上で、人種主義的な思想を実践へ移したということでしょう。反ユダヤ主義が様々な内政的・外交的力学に揺れながら、最終的には第二次世界大戦の成り行きに従って、収容所におけるガス殺という極限の実践へと至る過程も、本書が描く彼の人生から浮かび上がってきます。

 

帝国議会で対米宣戦について演説するヒトラー(ドイツ連邦文書館より)

 

ヒトラーという代名詞

しかし、本書の最も独特な部分は、死後におけるヒトラー像の変遷を辿る第6章です。冒頭でも述べた通り、ドイツ史を回顧する後世の人々は「ヒトラーの呪縛」から逃れられていません。第二次世界大戦期のドイツに関する映画が翻訳されると、邦題にしばしば「ヒトラー」という名が冠されるのは、多くの日本人が先の欧州大戦をヒトラーという個人に結び付けていることの証左かもしれません。また、専制的だと看做された政敵が「ヒトラー」に準えられがちなのも、彼が普遍的な「絶対悪」であるという認識が定着しているからでしょう。本書はこうしたヒトラー像が欧米圏でどのような生成変化を経たのかということに注目していますが、同様の問題を考えるためには、日本の大衆文化の中でヒトラーがどのように描かれてきたのかを探る佐藤卓己編『ヒトラーの呪縛』も参考になります。

 

佐藤卓己編『ヒトラーの呪縛』上巻(アマゾンより)

 

本書の終盤は、「生前、その人物はどのような人物だったのか」という実態を問う歴史から、「死後、その人物はどのように描かれたのか」という受容を問う歴史への「転進」を匂わせます。本書を批評したメディア史家の佐藤卓己さんは、この本を「過剰なヒトラー情報を批判的に読み取るメディア・リテラシーの重要な手引き」として先人から手渡されたバトンだと評しますが(佐藤卓己「ヒトラーを評価する視線はどう変わってきたか」『現代ビジネス』)、それはそれとして、具体的な個人を巡る大量の情報と向き合い、過去の実態を明らかにしようとする歴史家の努力も大切でしょう。

 

<書誌情報>

芝健介『ヒトラー―虚像の独裁者―』岩波新書、2021年。

<参考文献>

佐藤卓己編『ヒトラーの呪縛―日本ナチカル研究序説―』上下巻、中公文庫、2015年

佐藤卓己「ヒトラーを評価する視線はどう変わってきたか、「第二世代」からのバトン―芝健介『ヒトラー 虚像の独裁者』を読む―」『現代ビジネス』2021年10月6日

野田宣雄『ヒトラーの時代』文春学藝ライブラリー、2014年

林祐一郎「《読書案内》「ナチズム」が「”国民”社会主義」と訳されるべき理由―ジョージ・L・モッセ(佐藤卓己・佐藤八寿子訳)『大衆の国民化』―」『Der Bote von Osaka』ウェブ版、2021年8月18日

 

文責:林 祐一郎(京都大学大学院文学研究科博士後期課程・日本学術振興会特別研究員DC1)

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