ドイツ四方山話

【ベルリンの中の日本―「混沌の都」で出逢った日本人たち】

「ドイツの中の日本」といえば、ある程度ドイツ事情に通じている方は、真っ先にデュッセルドルフを思い浮かべるでしょう。確かにデュッセルドルフには、ドイツどころか欧州全体で見ても屈指の日本人街があります。「小東京」(Little Tokyo)と呼ばれるこの都市を訪れた日本人は、まるで自分が日本に帰って来たかのような印象を受けるといいます。残念ながら筆者はデュッセルドルフを訪れた経験が無いので、その雰囲気を実感できてはいません。

しかし、私が今回扱うのは「ベルリンの中の日本」です。ベルリンは筆者が大好きな都市で、既に4回も滞在しています。最初はハンブルク短期留学中の旅行で、二度目は学部時代の卒業旅行で、三度目はドイツ学術交流会(DAAD)の語学留学で、四度目は昨年9月からの長期留学で。筆者にとって、ベルリンを特徴付けるものといえば、「灰色」と「混沌」でしょう。筆者が所属する研究室の留学体験記にも書かせて頂いたのですが、ベルリンはドイツの北部に位置するため緯度が高く、夏と冬とで明暗の差が激しい土地です。長期留学の前半は秋から冬へと至る「暗」の季節でしたから、筆者は灰色の空を仰ぎながら心の陰鬱を感じるという日々に見舞われました(林祐一郎「<留学体験記>「灰色の都」で出逢った人々―冬のベルリン長期留学体験記―」『フェネストラ―京大西洋史学報』第4号、53-58頁https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/250931/1/fenestra_4_53.pdf, 2020年6月17日閲覧確認)。例えば昨年11月のある日、筆者が留学先であるベルリン自由大学の図書館で昼食後から勉強をしていたら、15時頃には空が蒼暗くなり、窓から見える景色に気が狂いそうになったこともあります。周囲の留学生たちは冬季鬱(Winterdepression)を訴えていて、私も薬局へビタミン剤を買いに求める始末でした。

 

他方、21世紀のベルリンは良くも悪くも雑種的な性格を持つ都市です。欧州だけでなく世界中から若年層を中心に多くの人々が集まり、多文化・多民族的状況を作り上げています。ミュンヘンのギムナジウムに留学した経験があるというメキシコの友人は、カトリックの価値観に裏打ちされた保守的雰囲気の強いミュンヒェンと比べて、ベルリンの方が開放的で暮らし易いと何度も言っていました。もっとも、料理と酒の美味しさに関しては、ミュンヒェンに遠く及ばないそうです。実際、「ベルリン小僧」(Berliner Kindl)というベルリンの代表的なご当地ビールは、ミュンヒェンを含むバイエルン地方のビールと比較されて、ドイツ通の日本人たちからは「子供の飲み物」、知り合いの欧米人たちからは「糞」(Scheiße)と呼ばれていました。「ベルリン小僧」の名誉のためにも述べておきますが、このビールは比較的飲み易いので、ビール初心者にはお誂え向きなのではないかと思います。いずれにせよ、ベルリンに開放的・前衛的な魅力を感じてやって来る若者たちは、日本人も含めて多いようです。ベルリンは現在の東京や大阪の比にならないほど外国人で溢れ、しばしば英語が目や耳に入って来ます。トルコ系の移民やアラブ系の難民が集住している地区もあります。

こうしたベルリンの「混沌」を象徴するのが、大晦日の花火大会です。しかし、「大会」といっても、明確に行政が組織しているのは年明けを祝う大規模な打ち上げ花火くらいです。大晦日の数日前になると、市民たちがスーパーなどで個別に購入した花火を打ち上げ、郊外でもパチパチという音が頻りに聞こえてきます。大晦日の当日には、花火や酒瓶を持った大勢の若者たちが都心に押し寄せ、自主的な花火大会、いや花火闘争を始めてしまうのです。正確な数値は分かりませんが、大晦日の花火騒ぎによって排出される大量の煙は、ベルリンの大気汚染に少なからず貢献してしまっているそうです。

筆者が大晦日の深夜、家に帰るため駅で電車を待っていると、向かい側の恐らく南欧系と思われる若い女性の方々がまだ灯りの点いている家へ向かって何やら英語で呼び掛け、それにそこの住民たちが迷惑がらないどころか歓呼して応えるという一幕もありました。その後、私がほぼガラガラの電車に乗ると、最早何処の出自か分からない若者たちの集団が何処の言語か分からない音楽をかけて踊り狂っているという光景も目に入りました。以上のような情景に眉を顰める方々もおられるかもしれませんが、ある程度ベルリンの雰囲気に浸っている筆者からすれば、こうしたことは「ベルリンではよくあること」として、一周回って愛着の抱かれる対象でもあります。コロナ禍を避けて日本の田舎へ退避している今からすれば、こうした「混沌」が愛おしくさえ思えるのです。

前置きが長くなりましたが、このようなベルリンにあって、日本人の存在は薄いように感じられます。しかし、そこは欧州屈指の大都市でありますから、よくよく注意してみれば、ベルリンに住んでいる日本人も少なくないことが分かってきます。そこで今回は、ベルリンにおける日本人共同体の拠点を三つ取り上げてみたいと思います。この三つはいずれも筆者が関与したことのあるものですから、筆者自身の体験と記憶に基づいて語っていきましょう。

1. ベルリン独日協会

大阪に日独協会があるように、ベルリンにも独日協会があります。このベルリン独日協会(Deutsch-Japanische Gesellschaft Berlin)とは、私が昨年3月にDAADの語学研修でベルリンに滞在した時から付き合いがありました。メールの遣り取りの後、日本土産を持って事務所を訪問した筆者を迎えてくれたのは、事務局長のカトリン=ズザンネ・シュミット(Katrin-Susanne Schmidt)さんでした。残念なことに、この頃は事務所を二度訪問しただけで、協会の公式行事に参加する機会はありませんでした。

筆者が初めて独日協会の公式行事に参加したのは、昨年の9月14日でした。この日、ベルリン独日協会の主催で「さよならダイトカイ」という食事会が開かれ、それに筆者も参加したのです(”Sayonara Daitokai. Abschiedsessen für Mitglieder der DJG”, https://www.djg-berlin.de/events/sayonara-daitokai-abschiedsessen/, 2020年6月17日閲覧確認)。この食事会は、これまで協会が贔屓にしてきた、シャルロッテンブルク地区の欧州センター(Europa-Center)にある日本料理店「ダイトカイ」が同月末に閉店するため、今のうちに同店の日本食を楽しんでおこうというものでした。料理の内容は主に魚の刺身と鉄板料理であり、当然ながら日本と比べれば割高であったものの、非常に質が高いように感じられました。同店を経営されていたのは日本人のようで、従業員も皆が日本人であったように思われます。因みに、日本からドイツへ留学した学生が日本料理店でアルバイトをするというのは、よくあることだそうです。店内の雰囲気も「和」そのもので、これまでに私が訪れた日本料理店とは一線を画していました。ここで食事をするのは、これが最初で最後になってしまい、とても残念でした。

私が下手なドイツ語を繰りながら久々の日本食を楽しみにしていると、開始時刻から少し遅れて私の隣に三人組のご家族がやって来ました。私の直ぐ隣に座ったそのうちのお一人はアキラさんという方で、ベルリンで生まれ、ドイツ人の女性の方と結婚されており、その間に幼い娘さんがおられました。彼の母親は日本人ですが、自身はほとんど日本語を話されないそうです。外国語としては、英語とフランス語を学ばれていたようです。
食事会が終わる頃、日本語が喋りたかったので、その場に残っていた日本人の方に話しかけることにしました。私が話しかけた女性は、ドイツ人男性と結婚されており、ベルリンに住んでから長いといいます。そこにもう一人の女性がやって来ました。彼女は、東西分断時代からベルリンの日系商社で働いていたといいます。話が盛り上がってきたので、そのまま近くの喫茶店へ移動して会話を続けることになりました。日系商社に勤めていたというその女性は、いくつか興味深いお話を披露して下さいましたが、最も印象に残っているのが、東西統一直後のお話です。彼女は現在のベルリンの都心に当たるフリードリヒ通りの商社に勤めていて、東ドイツの公営企業とも関わりがあったそうです。ベルリンの壁が崩壊すると、取引先の公営企業の人々も喜んでいたそうですが、彼女は「貴方たちの雇い主が居なくなるかもしれないのにそんなに気楽で良いのか」と釘を刺していたといいます。やがて東西統一が成ると、旧東ドイツの公営企業に政府から補助金が給付されました。すると、取引先の人々は皆、トラバントに代えてベンツに乗って出社してきたそうです。つまり、旧公営企業救済のために充てられるはずの補助金が、自動車の購入に充てられてしまったというわけです。果たせるかな、その企業は暫くして倒産したそうです。

さて、事務局長のシュミットさんとは、協会の主催によりベルリン市庁舎で開かれた、フォルカー・シュタンツェル(Volker Stanzel, 1948-)さんの講演で再会しました(”Vortrag Dr. Volker Stanzel: Berlin und Tokyo und die Politik drum herum”, https://www.djg-berlin.de/events/vortrag-dr-volker-stanzel-und-wilfried-schmidt-berlin-und-tokyo-und-die-politik-drum-herum/, 2020年6月17日閲覧確認)。因みに、シュタンツェルさんは大学時代に日本学を専攻され、京都大学にも留学された経験がおありの外交官で、2010~14年には駐日ドイツ大使を務めておられました。この時、ドイツ史研究者の北村厚・河合信晴両先生からご恵投頂いた『歴史のなかのドイツ外交』(http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg731.html, 2020年6月17日閲覧確認)という論文集を私が持ち歩いて読んでいるのをシュミットさんが目にされて、「貴方はもっと恋愛小説(Liebesroman)などを読まれた方が良いですよ」と仰っていたことが印象に残っています。

そういえば、昨年の3月に隣町のポツダムで旅行案内をされている日本人の方からお聞きした話によると、一昔前はポツダムにも独日協会があり、ベルリン独日協会と競合関係にあったといいます。ポツダムの会長はプロイセン貴族の方で、当時のベルリンの会長と張り合うようにして活動されていたそうです。ドイツにおける独日協会間の競合関係は、日本における日独協会間の競合関係を思わせるものがあります。

2. ボーカルアンサンブルさくら

私が「さよならダイトカイ」に参加してから翌日、9月16日にアキラさんの母だという方からメールが来ていました。アキラさんとお話しした時に名刺をお渡ししていたので、そこから情報を得て連絡されたのでしょう。彼は筆者と会話する中で筆者の声を歌唱向きだと思い、合唱団に誘ってはどうかと提案したのだそうです。溝延輝恵さんというその女性は、彼の提案を受けて筆者を彼女の合唱団「ボーカルアンサンブルさくら」(Vokalensemble Sakura)に誘って下さったのです。合唱団の練習は毎週水曜日の18時からリューデスハイム広場近くの練習場で3時間程度行われるとのことで、直近の水曜日に初参加することになりました。

筆者が練習場へ到着すると、溝延輝恵さんご本人が控えておられました。当日の筆者は病み上がりで喉が痛かったため見学だけするつもりでしたが、歌詞を記した楽譜の複製が筆者にも配られ、その場の流れで歌うことになりました。歌唱指導を担当されていたのは、現地の音楽学校へ通われているという重松一大さんでした。彼は、合唱団の皆さんから「カズ」(Kazu)と呼ばれていました。そう言えば、溝延さんも合唱団では「テー」(Te)と呼ばれています。こうした略称は、長い日本語名であると欧米人には発音しにくいから設けられたのでしょうか。というのも、この合唱団は日本人だけでなく、現地のドイツ人に加え、アメリカや中国からの留学生も参加しているからです。そういう意味で、この合唱団は多国籍的なベルリンの性格を色濃く反映した組織でもあります。もっとも、課題曲の多くは日本の歌曲であり、合唱団は日本文化発信の拠点としても機能しているものと思われます。

合唱団には、重松さんをはじめ、他にも音楽留学生の方々が参加されておりました。そうした方々はドイツ滞在経験が長く、またドイツ語学習への意欲も強いことから、私とは比べ物にならないほどドイツ語が堪能であり、歌唱指導も基本的にはドイツ語でのみ行われました。私の隣にはアレクサンダー・イェーガー(Alexander Jäger)君という学生が座っていたのですが、彼はポツダムで地学を専攻し、地震のことを研究していて、将来は日本に留学したいとのことで、片言ながら日本語を話していました。後から分かったことですが、彼は日本のアニメにも関心があり、好きな作品に『ソードアート・オンライン』(SAO)などを挙げています。筆者にとって初回の練習が終わると、新参者を歓迎するということで、近くの「ランダウ食堂」(Gasthaus Landauer)でビールを御馳走になりました。ここの生ビールが美味しかったのを憶えています。

それから二週間後に参加した練習は10月2日に行われ、祝日である「ドイツ統一の日」(Tag der Deutschen Einheit)を翌日に控えていました。明日は祝日ということで、この日も「ランダウ食堂」へ皆で飲みに行くことになりました。私が「そういえば、東西統一から三十年近くが経ったのですね」と発言すると、溝延さんはベルリンの壁が崩壊した時はとても嬉しかったと語られました。彼女の旦那さんはドイツ人で、元々は東ドイツに住んでいたのだといいます。しかし、まだ東西が分断されていた頃、家族と共に西ドイツへ亡命したのだそうです。この時、彼らは国境警備兵たちに酒を振る舞い、酔っ払った兵士たちが意識朦朧としている間に越境したのだとか。こうした事情があったからこそ、東西統一は喜ばしいことだったのでしょう。溝延さんの本業は医師で、当時もベルリンで開業医をされていたといいます。ベルリンの壁崩壊、東西再統一といった時期には、補助金を求める東ベルリンの人々が役所や銀行に列を成し、その中から倒れる人々が続出したため、病院は忙しくなったそうです。

11月には老人養護施設で合唱会が開かれることになっていました。私はここで、ドイツで初めて合唱会に参加することになりますが、やはり歌唱というのは専門技能なのだと感じさせられました。筆者は声の大きさだけには自信があったものの、確たる呼吸法を会得していないために息が長く続かず、また音程を外してしまうことも少なくありませんでした。それに、音大生の方々が周囲に多いというのもあって、楽譜が読めない私の拙さは際立っていました。この合唱会で筆者が歌うことになったのは、「赤とんぼ」「花」「さくらさくら」「野ばら」「椰子の実」などでした。しかし、知っている歌でも綺麗に歌うのは難しく、何度も自分の間違いを指摘されました。声が大きいために、自分が間違うと周囲にも響いてしまいます。論文執筆と同様、周囲の意見を聞きながら物事を進めるというのが、これほど重要なことかと思い知らされました。

合唱会本番では、「和」の雰囲気を出すために上から羽織る袴が用意されました。それらはいずれも溝延さんの私物で、とても綺麗な状態で保存されていました。我々は黒い服装の上にこれを羽織って、合唱会に臨みましだ。とはいえ、私にとって合唱に参加するのはほぼ10年振りでした。というのも、私は高校の卒業式を腹痛で休んだため、高校の卒業式で校歌を合唱する機会すら失い、また高校では「音楽」の科目を選択せず、聴衆を前に合唱するのは中学時代以来だったからです。そのような次第でしたから、合唱本番では卒論諮問以来の大きな緊張感に襲われました。気が付くと合唱が終わっていましたが、溝延さんたちからは、短期間でよくここまで上達させたと、お褒めの言葉を頂戴しました。この時既に、青々としていたベルリンの木々は赤みを帯びた葉を散らしており、日照時間もどんどん縮まっていました。ベルリンの灰空が齎す陰鬱は、直ぐそこにまで迫っていたのです。

3. ベルリン日本祭

さて、大学院生たる筆者の本業である学業の方はというと、11月末辺りから今まで進めていた自分の研究が上手く行かなくなり、慣れない長期の海外生活で精神も疲弊していました。そのため合唱団への足も遠のき、12月の「待降節合唱会」(Adventkonzert)で筆者が舞台に上がることはありませんでした。しかし、溝延さんからお誘いがあったので、筆者は聴衆の一人として会場に赴き、懇親会で「次の合唱会には参加できたら良いね」というような話を受けました。年末が近づくと気分転換のため友人たちに誘われて遊びに行くことが増え、精神の具合が一時的に上向きとなり、合唱団の練習やクリスマス会にも参加していました。

しかし、年が明けるとまた調子が悪くなり、再び練習を欠席するようになりました。断りを入れるために溝延さんとメールで遣り取りをする中、一度精神科に診てもらった方が良いのではないかと助言を受け、精神科に診て貰ってはどうかと提案されました。しかし、精神科にメールを出しても中々返事が来ず、ようやく返答が来たかと思えば「一見さんお断り」とのことでした。そこで、医師経験のある溝延さんと1月13日にお会いして、話を聞いて頂くことになりました。一時間半ほどの面談だったと記憶していますが、貴方は気負い過ぎているから楽な気持ちで留学した方が良い、記念碑や博物館が好きなのならそれらを目当てにして散歩に出る習慣を身に付けてみてはどうか、薬を飲むくらいなら程々に酒を飲んだ方がよく眠れるでしょう、といったような内容でした。そして最後に、同月25~26日には合唱団が「ベルリン日本祭」(JapanFestival Berlin)に参加するから、気分転換のため聴きに来てはどうかとお誘いを受けました。

「ベルリン日本祭」とは、毎年ベルリンで開かれる日本文化のお祭りで、「ウラニア」(Urania)という公共施設が会場となっています。「ウラニア」公式サイトによれば、天文の女神の名を関したこの施設の歴史は19世紀まで遡り、その端緒となったのは博物学者・地理学者のアレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt, 1769-1859)の構想であったといいます。彼は、ベルリンの歌唱アカデミー(Singakademie)で1828~29年に行われた「宇宙講義」(Kosmos-Vorlesungen)にて、当時の自然科学の知識を幅広い社会階層に普及させたいという思いを明らかにしたのです。この構想は、フンボルトの弟子であった天文学者のヴィルヘルム・フェルスター(Wilhelm Foerster, 1832-1921)とマックス・ヴィルヘルム・マイヤー(Max Wilhelm Meyer, 1853-1910)が、電気技師で起業家のヴェルナー・フォン・ジーメンス(Werner von Siemens, 1816-92)から支援を受けて、1888年に実現させました。こうして「ウラニア」が設置されたのです。第二次世界大戦後には、ハインリヒ・ベル(Heinrich Böll, 1917-85)、マックス・フリッシュ(Max Frisch, 1911-91)、ギュンター・グラス(Günter Grass, 1927-2015)といった、ドイツ語圏の有名作家たちも講演に訪れたような場所です。現在では、自然科学の枠に収まらない学問や文化の交流を図る拠点となっています。

さて、この歴史ある施設で催された「ベルリン日本祭」では、「フンボルトの間」(Humboldt-Saal)と「クライストの間」(Kleist-Saal)に分かれて、それぞれ30分毎に演目が組まれていました。私が会場に入ったのは26日の14時過ぎ頃だったと記憶しています。会場へ入るには入場券が必要であり、この日の当日券は16ユーロでした。舞台では、「ボーカルアンサンブルさくら」の合唱を含め、伝統芸能の披露やアニメソングの歌唱が行われていました。会場では日本食の販売があったほか、アニメやマンガのグッズも沢山売られており、全体的に見て伝統文化とサブカルチャーが半々という感じでした。アニメキャラクターの抱き枕も販売されていて、コスプレをされた方々もちらほらと目に入り、日本のコミックマーケットのような様相を呈していました。筆者もコミックマーケットには何度か足を運んだことがあり、少し懐かしさを感じさせられたところもあります。

ここで思い知らされたのは、日本のサブカルチャーの影響力です。留学先で語学のタンデムを組んだある学生さんから「日本学科の学生はオタクしか居ないという印象がある」と聞いたことがありますが、この発言には多少偏見が入っているとはいえ、全くの間違いというわけでもないのでしょう。少なくとも「ベルリン日本祭」では、日本文化のうち半分近くがアニメ・ゲーム・マンガといったもので説明されているのですから、この影響力を過信することはできないにせよ、日本への関心の入り口としてサブカルチャーが一定の位置を占めていることは間違いないでしょう。仮に深夜放送のディープなアニメを知らなかったとしても、『ワンピース』『ポケットモンスター』『ナルト』といった有名作品を一度でも観たことがあるという外国人はとても多いように思われます。「日本人としての特性を活かして欧米人と仲良くなろうと思うならば、『ドラゴンボール』の粗筋と登場人物くらいは押さえておいた方が良い」という先輩の言葉も、ここに至って重く響くようになりました。

このように、ベルリンにもドイツと日本との結節点が沢山存在します。最近では、ワーキングホリデーの制度を利用して日本からドイツにやって来られる方々も多く、若者が集う大都市ベルリンは魅力的な目的地となっているようです。筆者はそうした方々とも交流を持ったことがありますが、しかしながら、ワーキングホリデーでベルリンに来られている日本の方々の多くと筆者のベルリン観には、大きな隔たりがあるように感じました。彼らはベルリンにまず「先進的」なヨーロッパやグローバルな世界を見出し、現地の人々とも英語で話そうとします。他方、私は英語よりも(たとえ下手だとしても)ドイツ語を話すことを好み、ベルリンにまずドイツやプロイセンを見出しているのです。

これについては、本邦における日独交流についても同様のことが言えるでしょう。同じ「日独交流」でも、それに携わる各人は交流相手の彼方に何を見ているのでしょうか。日本人の視点からすれば、それはドイツかもしれないし、欧州かもしれないし、世界かもしれなません。ドイツ人からすれば、日本なのかもしれないし、アジアなのかもしれないし、それこそ世界全体なのかもしれません。そもそも、広い視野で捉えてみれば、日独交流は必ずしも日本人とドイツ人だけで完結するものでもないでしょう。ドイツで日本の民謡を披露する「ボーカルアンサンブルさくら」にアメリカ人や中国人が参加していたことに言及するだけでも、そのことは分かって貰えるはずです。また一方で、日本に古き良き伝統文化を見出す向きもあれば、前衛的な若者文化を見出す向きもあります。人々がドイツに何を見出すかということについても然りです。そうした日独交流に関する認識の違いはしばしば、各人の政治的・思想的な世界観とも連関しているようにも思われます。こうした視点から、これまでの日独交流はどうであったか、そしてこれからはどうあるべきなのか、一度考えてみるのも良いのではないでしょうか。

大阪日独協会学生会員 林 祐一郎

<主要参考資料>
「ベルリン独日協会」公式サイト、https://www.djg-berlin.de/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/, 2020年6月17日閲覧確認。
「ボーカルアンサンブルさくら」公式サイト、https://www.vesakura.de/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/, 2020年6月17日閲覧確認。
「ベルリン日本祭」公式サイト、http://www.japanfestival.de/, 2020年6月17日閲覧確認。
“Geschichte der Urania. Die Urania – das erste Science Center der Welt”, https://www.urania.de/die-urania/geschichte, 2020年6月18日閲覧確認。

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コメント

  1. 林 祐一郎様
    ベルリンの日常についてのお話
    ありがとうございました
    何度か行きましたが
    まだ良く分かりません
    また行くことになると思いますので

    よろしければ メールアドレスを教えていただきませんでしょうか?
    吉野

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