ドイツ四方山話

《読書案内》「理想国家」と試される古典学者たち―曽田長人『スパルタを夢見た第三帝国』―

 

「スパルタ」という言葉があります。過酷で厳格な教育や訓練を指すこの言葉は元々、紀元前の古代ギリシアに存在した都市国家(ポリス)の名称から来たものです。この国では、とても厳しく暴力的な鍛錬が青少年たちに施されていました。こうして、他にもアテナイやテーバイなどの都市国家が繁栄を誇る中で、スパルタは随一の軍事強国となります。日本では、必ずしも史実の通りというわけではありませんが、2006年に公開された『300 〈スリーハンドレッド〉』というハリウッド映画でも有名なはずです。スパルタについて、アテナイの著述家クセノポンは、このような言葉を残しています。「万人がスパルタ人の生活習慣を称賛した。しかしいかなるポリスも、これを摸倣しようとしなかった」。ところがドイツには、ほとんど誰も真似しようとしないこのスパルタに強く憧れたという歴史があります。それはヒトラーの国民社会主義政権期、いわゆる「第三帝国 Der Dritte Reich」の時代のことです。今回は曽田長人『スパルタを夢見た第三帝国』を紹介します。

 

曽田長人『スパルタを夢見た第三帝国』(講談社BOOK倶楽部より)

 

「第三の人文主義」と第三帝国

日本が大陸の文化を輸入したのと似て、ドイツも古代のギリシアやローマの遺産を継承してきました。こうした文化遺産を伝える媒介者になったのが、古典語や古代史に通じた人文主義者たちです。彼らはいわゆる教養市民層の一部で、「人間性 Humanität」を重んじるその立場からすれば、1930年代に成立した独裁者の政権とは対決しそうなものです。しかし、実際にはほとんどが抵抗を示しませんでした(拙稿「《読書案内》どうしてカントとゲーテの国でヒトラーが?―野田宣雄『ドイツ教養市民層の歴史』―」も参照)。その背景として、19世紀に実証史学的な古典研究が進展することで、古代ギリシアの絶対的だった価値が相対化されていました(著者の別著『人文主義と国民形成』も参照)。また、同世紀末からは教育政策の実学志向が顕著になり、第一次世界大戦後に成立したヴァイマール体制下では古典に関する教育や研究がいっそう冷遇されていると感じられました。果たして人文主義者たちの間では、1920~30年代に14~16世紀頃のルネサンスと18~19世紀頃の新人文主義に続く「第三の人文主義」が掲げられ、国民社会主義政権の登場に期待が膨らみます。

 

ベルンハルト・ルスト(ドイツ連邦文書館より)

 

国民社会主義政権は、人種政策・農業政策・教育政策という三つの観点で、古代ギリシアの様々な在り方からスパルタを選び取り、それを手本と看做しました。国民政治教育施設 Nationalpolitische Lehranstalt(ナポラ Napola)では「スパルタ的」な教練が重視され(2004年のドイツ映画『エリート養成機関 ナポラ Napola. Elite für den Führer』も参照)、食糧・農業大臣リヒャルト・ヴァルター・ダレ Richard Walther Darré(1895~1953)もスパルタの自給自足体制を高く評価しています(藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』も参照)。科学・教育・国民教育大臣ベルンハルト・ルスト Bernhard Rust(1883~1945)に至っては、本人が大学で古典文献学を修めた、人文主義ギムナジウムの古典語教師でした。航空大臣・空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング Hermann Göring(1893~1946)も、東部戦線の激戦地スターリングラードを、かつてスパルタ兵たちが玉砕したテルモピュライに重ね合わせ、兵士たちに徹底抗戦を呼び掛けています。このように、国民社会主義の世界観では大抵、スパルタは理想国家として受容されたのです。

 

ジャック・ルイ=ダヴィド「テルモピュライのレオニダス」(1814年、ウィキメディア・コモンズより)

 

三者三様の古典学者たち

こうした政権に対して、概して古典学者たちは協調か傍観の姿勢を見せました。しかし、彼らからは人種主義の学問的な正当化に貢献する人物が輩出した一方で、大学教員たちへ忠誠宣誓を迫る政権に抵抗した人物も輩出しています。著者はこうした人文主義の両極性に注目し、政権に対する「傍観」の例としてヴェルナー・イェーガー Werner Jaeger(1888~1961)、「協調」の例としてリヒャルト・ハルダー Richard Harder(1896~1957)、「抵抗」の例としてクルト・フォン・フリッツ Kurt von Fritz(1900~1985)という人文主義者を挙げ、彼らの軌跡を第二次世界大戦後まで辿っています。

 

ヒトラー総統に忠誠を宣誓する兵士たち(1934年、ドイツ連邦文書館より)

 

以上の比較を通じて著者は、煮え切らない態度を見せるイェーガー、一貫して体制側に立ったハルダーに対して、「学問の自由」を擁護したフリッツに好意的な評価を与えています。また著者は、「人文主義者フリッツによるナチズムへの抵抗の意義は、大学が(政治的な判断能力を持つ)「国家公民」を教育し、形成する一つの重要な場であることを、改めて明らかにした点にあった」(本書230頁)と記しました。

 

国家への執着

ところで著者は、「ナチズム」を指すドイツ語 Nationalsozialismus を「国民社会主義」と訳さず、一貫して「国家社会主義」と訳しています。しかし、ヒトラーの政治が国家による操作ではなく、大衆の積極的な参加によって支えられていたことに思い至るならば、この訳語は不適切と言えましょう(拙稿「《読書案内》「ナチズム」が「”国民”社会主義」と訳されるべき理由―ジョージ・L・モッセ(佐藤卓己・佐藤八寿子訳)『大衆の国民化』―」)。そして、本書には「国家 Staat」という言葉が頻繁に登場しながら、「国民 Nation」という言葉はほとんど登場しません。こうした言葉の選択には、古典を模範とする人文主義がお高く留まった「市民社会」の文化であり、それゆえ広範な人々からの支持を得られず、国家の後援に頼らざるを得ないという隘路が暗示されていると言えば、勘繰りが過ぎるでしょうか。

 

<書誌情報>

曽田長人『スパルタを夢見た第三帝国―二〇世紀ドイツの人文主義―』講談社選書メチエ、2021年

<参考文献>

曽田長人『人文主義と国民形成―19世紀ドイツの古典教養―』知泉書院、2005年

林祐一郎「《読書案内》どうしてカントとゲーテの国でヒトラーが?―野田宣雄『ドイツ教養市民層の歴史』―」一般社団法人大阪日独協会編『Der Bote von Osaka』2021年2月21日

同上「《読書案内》「ナチズム」が「„国民″社会主義」と訳されるべき理由―ジョージ・L・モッセ(佐藤卓己・佐藤八寿子訳)『大衆の国民化』―」一般社団法人大阪日独協会編『Der Bote von Osaka』2021年8月18日

藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業〔新装版〕―〈自然との共生〉が生んだ〈民族の絶滅〉―』柏書房、2012年

 

文責:林 祐一郎(京都大学大学院文学研究科博士後期課程・日本学術振興会特別研究員DC1)

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