今から140年以上前の1878年(明治11年)。開国したばかりの頃の日本に、ドイツから一人の貴公子がやって来ました。当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世 Wilhelm I(1797~1888)の孫、ハインリヒ・フォン・プロイセン Heinrich von Preußen(1862~1929)です。彼はこの日本旅行の中で、ここ大阪にも立ち寄っています。そんな道中、彼は吹田の釈迦ヶ家で禁じられていたはずの狩猟を行い、地元の住民や警官と暴力沙汰になってしまいます。その結果、日本政府はドイツとの外交関係に配慮して、皇族のハインリヒたちへ謝罪し、彼らに危害を加えたとされる警官を処分します。よく知られる「大津事件」とは対照的な、いわゆる「吹田遊猟事件」です。今回は山中敬一『プロイセン皇孫日本巡覧と吹田遊猟事件』を紹介します。
開国を巡る日独交流史
先月も日独交流史を取り上げましたが(林祐一郎「《読書案内》「友好」という名の「伝統」と向き合うために―ルプレヒト・フォンドラン(鈴木ファストアーベント理恵・小野竜史訳)『日独友好の橋を架けたドイツ人たち』―」)、維新前後の日本と統一前後のドイツとの関係を描く研究は、ここ十数年で急速に進展しています。2012年に出版された鈴木楠緒子『ドイツ帝国の成立と東アジア』は、プロイセンやドイツの使節団の日本来航を、単なる一つの逸話ではなく、ドイツ国民国家成立史の中に位置付けました。また、翌年に刊行された福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』は、イギリスやアメリカとの関係に偏りがちだった19世紀後半の日本と西洋との交流史の在り方に、確かな一石を投じました。2007年には資料集『明治初期の日本―ドイツ外交官アイゼンデッヒャー公使の写真帖より―』が、2015年には特別展『ドイツと日本を結ぶもの展図録―日独修好150年の歴史―』が発表され、日独交流史を知るための基礎情報も充実しています。
本書は、こうした広い視野に立つ研究の果実を摘まみつつ、今まで郷土史の狭い領域で扱われがちだった「吹田遊猟事件」というミクロな一事件を、極東進出を目論む新生ドイツ帝国の対外政策との連関から、マクロな世界史の中に組み入れようと試みています。治外法権や領事裁判権が幅を利かせていた当時、この外交問題を巡ってどのような法解釈が交わされたのかを検討する記述は、法学者である著者の面目躍如といったところでしょう。何かと印象の強い兄帝ヴィルヘルム2世 Wilhelm II(1859~1941)の陰に隠れて、あまり名の知られていなかったハインリヒに光が当たったことも、プロイセン史学徒の筆者にとっては嬉しいことです。
実直は両刃の剣
ところが、本書が一つの歴史書、もっと広く言えば、広く人々に提供される読み物として魅力的かと言えば、残念ながらそうではありません。著者の記述は非常に詳細で、事実の確定や推測という点で言えば、細部まで遺漏を許さないような意志が感じられます。なるほど、ハインリヒの日本周遊を邦語で描いた文献のうち、ここまで網羅的なものは存在しないでしょう。しかし、それゆえになのか、出版社の編集の手が入っているはずの著書にしては、非常に文章が読みにくいのです。多様で詳細な事実を盛り込もうという著者の意欲が災いしたのでしょう、所々で一文が異様に長く、誤字脱字も散見されます。本稿でその全てを挙げるようなことはしませんが、例えば、17頁ではブランデンブルクのフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯 Friedrich Wilhelm, der Große Kurfürst(1620~1688)が「フリートリッヒ・ヴィルヘルム大王」と誤記されているために、直後で言及されるプロイセンの「フリートリッヒ大王」(Friedrich der Große, 1712~1786)と区別しにくくなっています。このような文章が充分に校正されないまま、日独交流史の貴重な研究が世に問われてしまったことは、実に無念でなりません。我々のような若い世代も、外国皇族の「裁判 Gericht」沙汰という格好の材料を、もっと美味しい「料理 Gericht」にしなければならないと、意を新たにした次第です。
<書誌情報>
山中敬一『プロイセン皇孫日本巡覧と吹田遊猟事件―ドイツ帝国東アジア進出と治外法権外交―』成文堂、2022年。
<参考文献>
国立歴史民俗博物館編『ドイツと日本を結ぶもの展図録―日独修好150年の歴史―』国立歴史民俗博物館、2015年。
鈴木楠緒子『ドイツ帝国の成立と東アジア―遅れてきたプロイセンによる「開国」―』ミネルヴァ書房、2012年。
パンツァー, ペーター/スヴェン・サーラ『明治初期の日本―ドイツ外交官アイゼンデッヒャー公使の写真帖より―』OAGドイツ東洋文化研究協会、2007年。
福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』東京大学出版会、2013年。
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