ドイツの首都ベルリンの中心部には、「フリードリヒ通り Friedrichstraße」という名を冠した大きな駅があります。現在では中心街の一角を成すこの駅はしかし、東西冷戦期には両陣営の最前線にあって、国境検問所の一つとして機能していました。有名なベルリンの壁が冷戦の産物だったように、このフリードリヒ通り駅も冷戦を象徴する存在の一つだったのです。ここには、東西両ドイツの鉄道を巡る奇妙な分断と越境の歴史がありました。今回紹介するのは、鴋澤歩『ふたつのドイツ国鉄-東西分断と長い戦後の物語-』です。
ドイツ国鉄の東西分裂
現在ドイツ最大の鉄道会社として知られている「ドイツ鉄道株式会社 Deutsche Bahn AG」(DB)。その規模や役割を考えると、日本のJRと似ているところの多い会社です。もっとも、ドイツで全国鉄道が成立するまでには、1871年の政治的統一から遅れて、半世紀近くもの時が必要でした。DBの前身となる「ドイツ国鉄 Deutsche Reichsbahn」が成立したのは第一次世界大戦後、1920年のことでした。因みに、東西冷戦以前の歴史的な経緯については、著者の別著『鉄道のドイツ史』に詳しく纏められているので、そちらの参照をお勧めします。
ドイツ国鉄は国民社会主義政権への協力と第二次世界大戦での敗北を経て、東西ドイツ両国家と同様、二つに分かれてしまいます。この結果、東ドイツの国鉄は「ドイツ国鉄」の名を引き継ぎ、西ドイツの国鉄は「ドイツ連邦鉄道 Deutsche Bundesbahn」を名乗りました。1950年代に自動車が普及して鉄道の需要が相対的に減じていく中で、西ドイツ国鉄は経済復興に沸きながらも、自らが「国家による公共事業」なのか「企業」なのかという問題に向き合わざるを得なくなっていきます。また技術的な必要から、社内の幹部には国民社会主義政権に協力した過去を持つ人々も多く含まれていました。対照的に東ドイツ国鉄では、社会主義政権の意に合わない幹部を排除するという政治的な介入が頻繁に行われていました。自由競争の下で西ドイツ国鉄が次々と高速化を進めていく一方で、東ドイツ国鉄は計画経済ゆえに技術革新を遅らせてしまいます。当時の東ドイツ社会の歴史については、昨年11月の記事でも紹介しています(拙稿「《読書案内》「壁の向こう側」ではない、もう一つの「ドイツ」」)。
「陸の孤島」のSバーン
ベルリンの壁が構築されて以来、西ベルリンは東ドイツ領に囲まれた西側陣営の飛び地となっていました。実はここでは、壁が出来上がる以前から東側に属する「ドイツ国鉄」の市街電車、即ちSバーンが走っていて、東西分断を越境する奇妙な存在となっていました。しかも、その従業員は西ベルリン市民だったのです。著者は本書の中で、東ドイツ国鉄に雇われた西ベルリンの従業員たちに特別な位置を与えています。
壁に囲まれた西ベルリンという世界的には小さな空間の鉄道を巡って、1980年代には従来の冷戦構造を揺るがす転機が生じつつありました。西側社会の経済的発展や政治的自由を間近で目撃していた西ベルリンSバーン従業員たちは、度々東ドイツ国鉄に対して反抗的な態度を示していましたが、1980年9月には遂に大きなストライキを決行したのです。決起は鎮圧されたものの、東ドイツ政府に西ベルリンのSバーンを管理する余裕が無いのは明らかで、1984年にはその管理権が西ベルリン市に移されてしまいます。著者によれば、この出来事は、ベルリンの壁の崩壊を先取りした、一つの小さな、しかし象徴的な「転換 Wende」だったというのです。東西ドイツ統一の経緯については、昨年10月の記事でも紹介しました(拙稿「《読書案内》30年後から見た「再統一」」)。
血の通った「鉄道史」
著者の鴋澤歩さんは、数字や統計を駆使する経済史学者。当然、本書の中でも経済学の議論が何度か引用されています。しかもテーマは「鉄道」ですから、どうしても「モノ」中心になりがちです。しかし、交通が血液の循環に喩えられるように、「鉄道」だって人間の営為と無関係のものではありません。実際、本書から浮かび上がってくるのは、「鉄道人 Eisenbahner」として働き、一方で戦後社会の復興に、他方で政治体制の転換にも関与した人々の姿です。著者が血の通った人間に注目してきたことは、別著『鉄道人とナチス』にも明らかでしょう。
単なる科学的な技術や経済的な手段としてだけではない、鉄道なるものの歴史。「その経緯を、急速に発達した科学技術の貪欲な摂取とその華々しい成果でのみ、もしも描けたならば、きっと楽しいだろう。だが、その背景にあるものを知らなければ、超高速特急列車に対する純粋無垢の興味や関心もまた、いつか、ふと、はかなく喪われてしまうかもしれない。逆に、背景にのみ関心をもつこともまた、そうした危険を帯びている。そこにあるのは私たちの認識の成長ではなくて、やはりただの頽落だということになりそうである」(本書240頁)。
<書誌情報>
鴋澤歩『ふたつのドイツ国鉄-東西分断と長い戦後の物語-』NTT出版、2021年。
<参考文献>
林祐一郎「《読書案内》30年後から見た「再統一」―アンドレアス・レダー(板橋拓己訳)『ドイツ統一』」一般社団法人大阪日独協会編『Der Bote von Osaka』2020年10月26日。
同上「《読書案内》「壁の向こう側」ではない、もう一つの「ドイツ」―河合信晴『物語 東ドイツの歴史』」一般社団法人大阪日独協会編『Der Bote von Osaka』2020年11月26日。
鴋澤歩『鉄道人とナチス-ドイツ国鉄総裁ユリウス・ドルプミュラーの二十世紀-』国書刊行会、2018年。
同上『鉄道のドイツ史-帝国の形成からナチス時代、そして東西統一へ-』中公新書、2020年。
かなり前に鴋澤先生の経済史の講義を聴講したことがあります。
歴史観点からの経済、経済観点からの歴史、とても興味深かった記憶があります。
コメント有り難う御座います。記事を書かせて頂きました林です。鴋澤先生の講義をお聴きになったとのことで、それは貴重な経験をされたと思います。私は鴋沢先生のお姿を直接拝見したことはありませんが…。